誰かに認められたいなら
誰かに認められたいという承認欲求は誰にでもあるだろう。
自分が生きている価値を見出したいのは人間だから持つもののように思うのだけれど。
でも、誰かに認めてもらいたいと願うより、まず、はじめにするべき事は、自分自身を認める自己承認だと思う。
それさえあれば、他人からの承認などどうでもよくなるものだ。
「日本女性は自分探しを続ける人が多くないですか?」の言葉に心が動いた。
私も、ずっと自分探しをしてきたようなものだ。私ってなんだろうな。何が出来るかな。何のために生きているのかなという思いは、他国に生まれた人は思わないのだろうか?
外国人になった事がないし、なってみたいと思ったこともないので、その辺りはわからないし、海外に住んだ事がないので、海外の事情はしらないが、どうやら日本女性が特別強いようなのだ。
日本女性特有とするならば、私なりに思うのは、自分探しは自分を肯定したい自己承認のためだと思う。
日本女性というよりも、民族的に肯定された事が、今の日本人は少い為、自己肯定の能力がとても低いのだと思う。
私達は知らず知らずに否定されながら育ってきた。世界で通用しない日本人的な物事すべてにおいて。
他国からの批判だけでなく、自分達でも否定や非難することが、賢いと言われるような先生・有識者・評論家・海外の事情に詳しい人とかという社会的に認められているような人達によって、
日本人がいかに変わった民族で世界的に劣るかのように言われてきた気がする。
それを、私達は知らず知らずに、じわじわと心に浸透させてきた。
そう、私達は稀有な民族だと思う。変わっている。
けれど、変わっている事は劣るという事ではない。
世界では通用しない日本人の感性と言われるが、だとしたら、
中国なら?、韓国なら?、ロシアなら?、アラブなら?
どの国の常識だって世界共通ではないはずなのに、何故私達のみが、通用しないから価値観を変えろと責められ続けてきたのだろうか?
アフリカの先住民族の方達にそんな事言うのだろうか?
あなた達の価値観は世界で通用しませんから、世界で通用するように認識を変えなさいって?
逆に、希少な少数民族は文化遺産とかで守られる傾向にあるのだと思って調べたらすぐヒットした。
私の思惑が外れ、アフリカの少数民族は、日本的な考え方と同じように消えそうになっていっている。そのサイトのリンクを張らせてもらった。
近代化とかグローバル化とか、そうする事がまるで正しいかのように叫ばれる中で、
経済活動をするために利益を得たいと思っている側の常識に上書きされて、アイデンティティを失なっていく。
まさに日本人もこれだろうと思う。
経済活動で日本から利益を得たい側が日本人の考え方が理解できないから、日本人は変だと言い続け、
私達日本人は、大きな戦争で何にもなくなって、弱くて、
弱いと強者の言いなりにならなければ生きていけないような気持になった。
他者と比べて優越をつけ、よりお金を得られた方がこの世界での強者で、何をしてもゆるされるのだという価値観へ変えられていった。
私の子供の頃は
・お互い様だから
・どこでお世話になるかわからないのだから
と、物を買うにしても、購入するお店の立場も考慮していた。
この世はめぐりめぐって誰かのお陰でなりたっているという事を、感じながら私は育った。
「お陰様で」と大人たちはしょっちゅう口にしていた。
今、若い人と会話の中で、「お陰様で」と返すと、「私は何にもしていません」と怪訝な顔をされたりするが、
お陰様とは、対面する相手に対してだけに向けている訳ではない。
見えない何かの加護を受けている事への感謝の言葉でもあるのだ。
少なくとも私の知る日本では、相手より優位に立ち、自分の利得になるよう相手から少しでも得ようという考え方で動いてはいなかったように思う。
そう言うと、監視社会の村社会的発想で、村八分になるからでしょ?という人もでてくるかもしれないが‥‥。
暮らしたことのない人に言葉で言っても伝わらないだろう。
そして、私も見たいようにしか見ていないのかもしれない。
だから、真相はわからない。
けれど、そのような生活に、私は日本人的宗教観を感じる。
私には穏やかに、ゆるやかに暮らしているように見えた。
この、私の思う日本人的考え方で生きていたなら、少しでも有利に少しでも得をしようという弱肉強食の世界では、経済活動の邪魔になる。
だから事あるごとに、日本人的な考え方を否定され続けてきたのだと私は思っている。
私は、第二次大戦の後遺症で日本人全体の劣等感がはじまったように思う。
もっと根深いような日本女性の劣等感に思いをめぐらせれば、明治維新の頃の儒教の影響で始まった男尊女卑の考え方のせいだろう。
つまり、祖母世代までさかのぼって、女性である劣等感に加え、さらに民族的な劣等感まで加わるのだから、日本女性の自己肯定感の低さは、本当に仕方がなく根深いのだと思う。
こうして、母親たちの世代を超えて受け継がれた、自己否定の負の連鎖を、断ち切りたいと皆心のどこかで感じ始めているのではないだろうか?
だから自分探しに夢中になる。
自分自身が認識していないような劣等感を払拭したくて、自分探しをしてしまうのだと私は思う。
女性が心底楽しんで生きている事が、周りを明るくする事。
私が思うように皆も思っているのだと思う。
自己肯定感が低いままでは幸福感は得られないのだと、心の中でわかっているから。
何故私がそう思うかというと、私が今、わりと穏やかな気持ちで生活しているのは、自分探しという自己承認作業があったからの様に思うのだ。
仕事も今月はほとんどなかったし、子供もどう生きていくのか模索中だし、経済的な事を考えたら不安要素もあるだろうが、不安感は嘘のように私の中から無くなった。
自己肯定感が高まって幸福感を得ました!とか声高に言えるような幸福感には包まれたりはしていないが、おだやかな空気感の中生活している。
だから、
自分とは何なのだろう?と
自分を認識しようと客観的な意見を、他人の中に求める自分探しに対して、私には否定的な考えはない。
特に、母親であった時期の女性達は、自分の事より家族の事・子供の事を優先し、自分の望みなど深堀りしない時期を過ごしたことだろう。
それを終えての自分探し。
これから自分はどう生きたいか?。社会に対して何が出来るだろうか?
そう考えるのは至って当然のことのように私には思える。
ただ、この自分探しの旅に向かう中で、苦しさを生む原因になりそうな道が潜んでいる。
その道を進んでいる女性たちは、とてもしんどそうにも見え、私には無理だなと思う。
その事はまた別で書きたいと思う。