【水平社宣言を読む2022】過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた吾等のための運動が、何等の有難い効果をもたらさなかった人間を勦(いたわ)るかのごとき運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた
「何等の有難い効果をもたらさなかった」という「吾等のための運動」、そして「かへつて多くの兄弟を堕落させた」という「人間を勦(いたわ)るかのごとき運動」とは、部落改善事業(地方改善事業)や、融和運動のことでした。それはどのようなものだったのでしょうか。
ここでは水平社創立前後の動きを紹介します。
●水平社創立前後の部落改善事業(地方改善事業)・融和運動
1920(大正9)年
1920年、政府は部落改善予算として5万円を計上し、京都府など16府県に合計43,000円を交付しました。また、地域の実態、改善事業の状況、周囲との関係などの調査を全国的に行い、翌年結果がまとめられました。こうした被差別部落の調査は以前よりしばしば行われていました。そして改善事業をすすめるため、岡山県協和会、信濃同仁会など、各地に融和団体が結成されました。
1921(大正10)年
1921年には、部落改善予算が21万円に増額され、145,860円が交付されました。融和団体である帝国公道会(1914年創立、初代会長板垣退助)は、第2回同情融和大会を開催しました。政治家・華族・学者らが発起人となり、全国から差別されていた地区の代表が参加しています。
和歌山県、広島県、山梨県等の被差別地区有力者数名が実行委員に選ばれ、関係各省に陳情して部落改善政策の積極的な実施を要請し、帝国議会に請願【註】も行いました。この請願には、官公吏への採用、身元調査や公文書への差別記載の禁止、軍隊・学校での差別の廃止、部落改善団体の組織化、改善事業をすすめるための体制整備など、差別をなくすための具体的な要求が盛り込まれています。
また、有馬頼寧(よりやす)が融和団体同愛会を、松本治一郎が筑前叫革団を結成するなど、各方面の動きも活発でした。社会事業に熱心であった有馬は、水平社にも一定の理解を示していたといわれています。松本治一郎は、この後水平社に参加し、1925年に全国水平社委員長となりました。
【註】帝国公道会 帝国議会への請願
一、部落民を官公吏に採用すること。
一、官公文書、身元調査等に特殊部落又は其他忌むべき文字を記載
せしめざること。
一、軍隊内に於ける差別待遇を廃止すること。
一、教育上に於ける差別待遇を廃止すること。
一、部落改善団体を組織すること。
一、部落改善調査機関設置のこと。
一、部落改善費は国庫より支出せられたきこと。
一、内務省に部落改善事務の局課を設け、専任の管理を置くこと。
一、地方庁内に社会課を設け、部落改善の専任官吏を置くこと。
一、北海道に団体移住する戸数の内規制限を撤廃すること。
(参考「同和対策審議会答申」1965)
1922(大正11)年
1922年2月には、大阪で大日本平等会同胞差別撤廃大会が開催されました。
水平社の創立メンバーは平等会を批判し、この大会に参加して、3月3日の水平社創立大会への結集を呼び掛けています。この年の部落改善費は、195,847円でした。
2月21日 大日本平等会同胞差別撤廃大会(大阪 中之島公会堂)
来賓に大阪府知事・大阪市長、東西本願寺連枝
3月 3日 京都の岡崎公会堂で水平社の創立大会
綱領
一、我々特殊部落民は、部落民自身の行動によって絶対の解放を期す。
一、我々特殊部落民は、絶対に経済の自由と職業の自由を社会に要求
し、以って獲得を期す。
一、我等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向って突進す。
1923年度には「部落改善」は、「地方改善」と表現されるようになりました。この年の地方改善費は490,745円に増額され、その後、対策事業が拡大されていきました。
融和団体は、水平運動の動向を気にしながら、さらに事業をすすめ、1925年には、分散して活動していた融和団体を結集させ、中央融和事業協会(会長平沼騏一郎、事務所は内務省社会局)を結成しました。
各地で展開された融和事業などにおいては、同情融和を掲げ、差別されている人たちの服装や言葉遣いが問題であるとして警察が取り締まるなど、強圧的な対応が批判されることもありましたが、地域の改善にも取り組んでいました。
水平社と、水平社に批判された融和団体は、互いを意識しながら、それぞれの活動を進めていきます。
【参考】
「同和対策審議会答申」1965
『同和政策の歴史』藤野豊 解放出版社 1984
『部落解放史 熱と光を』中巻 部落解放研究所編 解放出版社 1989