【水平社宣言を読む】ケモノの皮はぐ報酬として、生々しき人間の皮をはぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引き裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた
水平社宣言には、当時の差別への怒りが書き込まれていますが、その一つとして、「ケモノの皮はぐ」「ケモノの心臓を裂く」という表現が使われています。これは部落差別が江戸時代の身分差別に起因し、被差別身分の中に、死んだ牛馬の処理に従事した人びとがいたことを意味しています。
そこで、江戸時代の身分制度と死牛馬(斃牛馬)処理について、簡単に説明しておきたいと思います。
●死んだ牛馬の処理と関連産業
江戸時代の村では、農作業で使う牛馬が死んだ時に、その処理をする人を特定して任せるという慣習がありました。死んだ牛馬の処理を農民が自ら行った地域もありましたが、多くの地域では、特定の被差別身分の人に従事させていたのです。死んだ牛馬の処理は職業ではなく、従事する人の多くは農業などの仕事を持ち、牛馬が死んだ時に、処理する権利を持っている被差別身分の人が、地域のルールに従って処理していました。
ところが、中には死んだ牛馬の処理の経験や技術を活かして、農業の傍ら、新たな産業を興す人たちもいました。皮なめしや、膠製造、雪駄づくりなどで成功し、大きな富を得た人びともいましたが、一方で、周辺地区との違いが目立つようにもなりました。
明治になり、江戸時代の死んだ牛馬の処理システムは全国統一して廃止され、従来処理に携わっていた人びとの中には、明治以降は関わらないという選択をしたところもあります。
その一方で、江戸時代から続く産業を更に発展させた地域や、近代産業として食肉、皮革関連産業など新たに事業を興した地域もありました。
たとえば水平社創立メンバーであった阪本清一郎の生家は、膠を製造していました。
膠は、動物性の接着剤として古くから世界各地で利用されてきました。獣の皮、軟骨などを煮詰めて凝固、乾燥させたもので、製造は気温の低い時期が適していました。
原料として獣皮などが使われるため、差別的に扱われたこともありましたが、古くから木工、墨など、日本の産業や文化に欠かせないものでした。
冬季製造を基本とする伝統的な方法(和膠)が各地で長く続けられました。明治以降は、接着剤、マッチ、食用・医療用・写真フイルム用・精密工業用ゼラチンなど用途が広がり、機械化により大量に安定した質の膠を製造できる西洋の製造法(洋膠)や、より純度が高く良質のゼラチンを製造する研究もすすみました。
差別の中で、「生々しき人間の皮をはぎ取られ」、「暖かい人間の心臓を引き裂かれ」、「下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた」という屈辱を受けた人びとが担った仕事は、社会に欠くことのできないものであったことを、強調しておきたいと思います。