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一人きりが好きな人へ

おはようございます、ちょっとした変態主婦・優樹祈です。

ここ最近は記事よりもつぶやきの方が多くなってしまい、朝パソコンに向かうのではなくスヤスヤと眠ってしまっています。

旦那さんであるポンヌチャンが言うには「眠れるのはいいことじゃないの?」とのことでしたが、朝の自由時間にあれこれと思索にふけったり、書き物をしたりする時間がないと、どこか気持ちに余裕のない一日を送ることになってしまいますね。

とはいえ、つぶやきでもお伝えした通り、人前でお話している感覚のnoteではなく、ひとりごとを話し続けている感覚で書く書き物の方が作文が捗るという事情もありまして、最近はすっかりnoteではなくタブレットで文章を書き綴ることにハマっております。

パソコンよりタブレットで書く方が、一人きりの空間に浸れる感じがするのですよね。
ひとえにタブレットの方がパソコンよりコンパクトだからなのですが。

以前お伝えした通り、閉鎖されている空間にいると落ち着く心境になるもので、画面が狭いタブレットの方が書いていて心地よいのですよ。


ところで、この記事を読んでくださっている方は、一人きりの時間を楽しめるタイプですか?
それとも、常に誰か自分の他に人がいる方がいいタイプでしょうか。

コロナ禍のときに学生などの若者の孤立化が問題になっていましたが、私は本来、一人きりの時間を楽しむことができるタイプです。

といっても、「おひとり様」と「孤立」って全くの別物ですよね。
心理的につながっている相手が誰一人いない環境で孤立するのはとても苦手です。

以前の私は、一人きりの時が一番落ち着くと思っていました。
共同生活に向いていないと自分でも思う所以になっている性格が、その「おひとり様を好む部分」だったわけなんですけれども、最近生活していて思うのが、「つくづく一人きりにされるのが駄目になってしまったな」ということなのです。

今でも一人きりになりたい時間というのは冒頭でも書いた通りあるのですけど、この年齢になるまでそんなふうに思うことはありませんでした。

常に、離れていても心理的につながっている相手が複数人いたからなのでしょうね。
昔から知人は多くても、本当に友達といえる人数はそう多くはありませんでしたが、そのぶん深い付き合いになりやすく、孤立していると感じることはない人生をあゆんできました。

でも、この年になってみて思うのが、それぞれ結婚したり環境が変わったりして別々の人生を歩んでいくようになると、心の距離も離れていくにつれ、次第に疎遠になっていくケースが否応なく増えるということでした。

そのぶん新しい出会いもあり、プライベートで仲良くする人たちというのも変わっていくのですけど、何年後かにはまたその人達とも疎遠になっていくのかな、などと考えることもあるのです。

よく「学生のときにできた友達は一生」と言いますが、わたくし去年、一番仲良くしていた友達と別離したのですよ。

私が結婚していて、彼女は独身で、生活環境が全く違うことから、話していて会話がすれ違うことが増えていったことが原因のような気もしますが、これといってハッキリと別離の決め手になった出来事があったかと言われるとそうではなく、お互い何となく連絡を取らなくなっていったのですけど。

彼女とは私がまだ学生だった頃からの付き合いで、共通の趣味を通じて親しくなっていきました。
プライベートで一番重要視している趣味の関係で一緒に行動する相手というのは、彼女にとっては私一人きりだったように思います。(実際、そうだと言っていましたね)

もちろん彼女には他にも趣味がありましたから、親しくしていた人というのはまた別にいたかもしれませんし、それは私も同じく、別の趣味で親しくしていた友達というのはいたわけで。

でも、私も彼女もその辺のことには深堀りしなくとも馬が合っていたので、お互い女同士でよくありがちな、上辺だけのべったりした付き合いではなく、お互いの人生観に関わるような深い話もよくしたものです。

お互いがお互いにとっての一番。
そう言える友達でした。

一番とか二番とか、そういうことを強調したいわけではなくて、単にこちらがツーといえばカーといえるような、特別仲の良い関係だったわけです。

しかし、かつて独身だった頃に比べると、私を取り巻く環境は一変しました。
結婚してからも彼女との付き合いは続いていたわけですが、前と同じ付き合いというわけにはいかなくなったことが、別離の原因として一番大きいといえるかもしれません。

平たくいえば彼女はオタクでして、私もオタクだったわけです。
ですが私は、去年オタクをやめたのですよ。

厳密にいえば、オタク関係の友達全てに私から背を向けたのです。
ちょっと自分としては嫌な表現になりますが、MBTIでいう「INFJのドアスラム」というやつに該当するかもしれませんね。

正直、オタクにはついて行けないと思う部分が昔からありました。
以前、「思い出話を少々」という記事でも触れましたが、オタクの中でも私は異質だったので、仲良くしていた人たちも最初は近寄りがたいと私に対して思っていたわけです。

一生物の友達だと私に対して思っていた人はいたと思いますが、私から誰かに対して一生付き合っていきたいと思う相手はいませんでした。
強いて言えば、去年別離した彼女くらいだったのですよね、一生付き合えるかもしれないと思っていたのは。

でも、彼女の中のオタク要素が私にそれを許しませんでした。
私はプライベートで信仰の方に思考がシフトしていき、彼女は無神論者とはいわないまでも、信じる神がいない人だったからです。

私にとっての一番の理解者は、同じ信仰をしている旦那さんであるポンヌチャンになり、彼女の優先順位は徐々に低くなっていきました。

彼女がこう、と思うことに私が「うん」とは言えなくなり、その逆もまた然り。
お互いの価値観もまた、次第に変わっていったことも別離の理由としてあったかもしれません。

そういう一つひとつの積み重ねが私達を引き離したのかもしれませんが、心に残っているやり取りが一つだけありまして。

それは冒頭でも書いた通り、「おひとり様」と「孤立」は全くの別物だということです。

彼女も私と同じく、おひとり様や一人きりを楽しむことができるタイプで、むしろ一人きりの方が気楽でいいとさえ思うことがあるくらいの人でした。

でもそれは、心理的につながっている誰かがいるからこそ楽しめるのであって、世界でたった一人孤立してしまった場合にも楽しめるかというと、決してそうではないと思うということを、以前彼女に話したことがありました。

ちょうど、ポンヌチャンに先立たれた場合のことを考えて言ったことだったのですよね。
この世で自分にとっての最大の理解者を失ったときにも、一人きりを楽しめるかどうか、という前提で話した覚えがあります。

それは、生きていれば様々な付き合いはあるでしょう。
親友とまではいかなくとも、友達といえる人だって何人かはいるでしょうし……。

でも、心理的に、精神的に、深く強くつながっている理解者といえるかどうか。
その理解者がいない世界での一人きりだとしたら、あなたは楽しめますか?

そういう話だったのですけど。

彼女は幼い頃に両親を亡くし、幼少期から苦楽を共にしてきたお姉さんがいて、そのお姉さんが唯一の肉親でした。
叔母の話は聞いたことがありますが、主にそのお姉さんと、仕事の面でもプライベートでもニコイチみたいなところがあり、彼女にとってはお姉さんが家長ともいえる存在だったわけです。

そのお姉さんを失った世界でも、一人きりを楽しめるかどうか。
そこまで踏み込んではきけなかったのですが、ニュアンスとして、「お姉さんがいるじゃん? そのお姉さんがいるから一人きりが楽しめるんじゃない?」というようなことは言った上で、いなくても楽しめるかどうかをききました。

彼女がお姉さんを完全に失った世界での一人きりを想像したかどうかまではわかりません。
それでも、彼女は「一人きりを楽しめると思う」と言いました。

想定している相手が生きていれば、考えることは一つ。
その相手がいる場合に起こるわずらわしさです。
実際、彼女は自分で意識しているかどうかまではわかりませんが、お姉さんとの関係のわずらわしさをよく口にしていました。

わずらわしいことの方が多いと思えば「一人きりを楽しめる」、もしくは「一人きりの方がいい」と思うでしょうね。

即答できるということは、お姉さんがいないあらゆる世界線を想定してはいるのかもしれませんが、まず考えたことは、いない場合のわずらわしさからの開放――つまりは、自由の方だったのだろうなと。

完全な自由というのは、ある意味では只の放逐と同じだということを、彼女はまだ知らないのだろうなと私は思ったものです。

もちろん、お姉さんに対して感謝はしていたことでしょう。
でも、わかっていないなと思ったのです。
当たり前にお姉さんがいる世界がなくなることを、想像しきれているようには見えませんでした。

彼女は非常に賢い人で、他人に対する礼儀も欠かさず、人が人として生きていく上でわかっていなければならないことを、特に教えられなくてもわかったうえで尊べるきちんとした人でした。

それでも、もし想像しきれていたら、楽しめるという言葉は出てこない。
それがあくまでも私個人の価値観に基づいた考えであり、彼女の自由な発想とはまた別物であるということはわかった上で言っています。

なぜ私がそう思ったのかというと、彼女は以前、私に対してこう言っていたからです。

「私の考えに共感してくれる人がいると、一人じゃないって思える」と。

一人きりだとさみしい。理解者はいた方がいい。
それがわかっている人のはずなのに、お姉さんがいなくても一人きりを楽しめると言う彼女を、「素直じゃないな」と思ったものです。

素直だと傷つくからなのでしょうね。
確かに、多少ひねくれていた方が、真正面から物事を見たり聞いたり考え込んだりして、深く傷つかなくても済みます。

そんな不器用な彼女のことを、大切だと思ったことも確かなのです。
それでも、別れは来るのですね。

引き止めたり追いかけたり縋ったりすればよかったのかもしれません。
でも、終わりが来てしまったことを感じてしまったのです。

彼女は私を求めないでしょうし、私もまた、彼女を求めはしません。
いつも彼女から連絡がきていたのが、ぷっつりと来なくなったのが去年のことで、私からも連絡をとることはありませんでした。

こうして別離は訪れたけれども、彼女のことは今でも好きなままです。
理解しがたい心理だと思う方もいらっしゃるかもしれませんね。


最初の話に戻りますが、今でも一人きりやおひとり様を楽しめるのは、私にとってはポンヌチャンを筆頭に、普段仲良くしている友達などもいるからなのですよね。

私は、精神的につながっている理解者のいない一人きりは本当に駄目になりましたというお話でした。

これを読んでくださっている方はどうですか?
一人が好き。
そう言っている方にこそ、知ってほしいことを書いたと思っています。

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