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明瞭でいつづける、そのために考える。弱くていい。

卒業論文に苦しんでおります。いのりです。ならば書けよという真っ当なお小言が聞こえてきそう。辛い。しかし厄介なことに辛いと思っても書くことでしかわたしの傷は癒えません。書くことで自分のつまらなさに愕然とし、書くことでそのやりきれなさを昇華させる。何やってんだ。究極の地産地消である。もうずっとこの状態を繰り返している。

卒論?何書いてんの?に滅茶苦茶簡単に答えます

何をテーマに書いているかといいますと、「私とはいかなる存在か」ということです。いやあ苦しむ苦しむ。わからんよそんなの。そう思う。そう思うからこそ、余計に気になる。考えすぎてしまう。研究の関連で、犯罪心理というか、そのようなものの文献を最近読むことが多くなったのですが、かく言う私自身も、一時期は(というか周期的に?)とことん堕ちるところまで堕ちていた。自分にも、他人にも、危害を加える寸前までいったことがある。こんな話をすると、余計に怪しまれてしまうかもしれないが、去年の今頃、大学の友人に、「法を犯しちゃダメだよ」と優しく諭された。わたしは一体どう見えているんだ。でもまあ友人が訝しむくらいには、考え込んでいたのかもしれない。よく自分の「ゾーン」みたいなのに入ると、戻ってこれないことがある。危ないと思う。だから明瞭でいなければ、と思う。

その「とことん堕ちるところまで堕ちていた」、ある一時のことに関しては、過去随想録のような形でこちらに書いています。完全に事実かと言われると恐らくそうではないので、脚色ということにしておいてください。
気になる方は読んでみてください。読まなくてもいいです。

なんでも「自己責任」?

「自己責任」という言葉がもてはやされたことがあった。もともとはイラクで人質になってしまった方々に対して、賠償金を払うか否かという際問題となった言葉で、簡単に言えば、「好きで戦地に行ってるんだから、何故国が高いお金(税金である)を出してまで助ける必要があるのか」という流れというか論調からやってきたものだ。こういう書き方をすると悪意があるように感じ取る方もいるかもしれないが、しかしわたしはこの問題に関して何か意見を述べようと思っている訳ではない(勿論、自分なりに意見はあるけれど)。そうではなくて、わたしが今考えているのは、この世界に完全な「自己責任」はあるのか、ということである。
職業選択の自由、学問の自由、言論の自由。世の中にはたくさんの自由が存在する。確かにその中から選び取っていくのは自分、なのかもしれない。けれどもそれらは、純度100%の「自分だけで選び取ったもの」なのかと言われると、それも違うのではないだろうか。
例えばある人が教師を目指していたとする。そして無事になったとする。しかし苛酷な労働環境に気持ちが落ち込んだとする。この人に対して、「自分で選んだんだから」というのは、間違いではない。結果的に見れば、その人の選択である。しかしもしかしたら家庭の事情などにより、他の職業選択を許されなかったのかもしれない。そうなれば経済的な問題や、社会的な問題につながる。他者のことを一切無視して別の道を歩めばいいのかもしれないが、大抵は良心が働いたりする。親孝行、とか恩返し、とかいうのも含まれるかもしれない。そうであれば、その人が良心を持つに至るまでの過程があるわけで、たとえ独学で学びました!と言ったところで、学んだものに立ち返れば、それは何かに影響された、ということになる。
その人が真に教員になりたいと元から強く望んでいたとしても、それは自然発生的な気持ちではなく、それも何かしらの影響である。「何もやりたいことが思い浮かばないので、とりあえず」という場合でも、その取り敢えずリストに教師が入っているのは、自分が教鞭を受けた経験があるからであり、そうなればその人の影響がある、ということになる。
しかもこれもよくよく考えればわかることだが、好きで選ぼうがそうでなかろうが労働環境が悪ければ文句のひとつくらいは出るだろう。それも当然、その人だけの責任ではないし、その人だけではどうにもならない。「自分で選んだんだから」に含まれる「嘆くな」という意味合いは、それは薄情だろうと思う。

要するに、真の意味で「自分だけ」で選択できる、どうにかなることというのは、ない、もしくはとても限られているのではないだろうか。「自己責任」という言葉は、そうしたありとあらゆる可能性を切り捨て、自分ひとりで何とかなるでしょう、という語気を孕んでいるように思う。だから嫌いだ。
そもそも人間は何でも自分で何とかなってしまうと考えているところがある。それを強さと語る人もいる。自分で何とかならないことだらけだよ世の中。
でも人のこととか、社会のこととか考える余裕がない。そうなんですよね。誰しも自分の生活で精いっぱいだし、出来れば考えたくなんてない。面倒だから。自分に関係ないことだから。正解がないことだらけだから。そんなこと考えずに生きていたほうがずっと効率的だから。でもわたしは考えてしまう。非生産的で非効率的な思考を、もうずっと膨らませ続けている。世の中が、簡単に割り切れないことに気付いている。矛盾だらけなことも。それらを考えるのは苦しいけれども、もし全くそういうことを考える人がいなくなったら、と思うとぞっとする。恐らく倫理とか、道徳とか、法律とかもなくなる。何でもかんでものさばる世の中になってしまう。悲観的に考えすぎだろうか。ありえない話ではないと思うんだけどな。

何故、わたしは考えるのか

事件が報道される度に、どうしてそのようなことになってしまったのか、考える。被害者の苦しみは計り知れない。それならば関係のない部外者が、加害者を一方的に糾弾できるのか、とも思う。勿論、加害者の行ったことに関しては、相当の裁きが下らなければならない。しかし近年、社会的制裁という言葉を笠に、過激に個人を追い詰めることが増えすぎている気がする。ある友人は、「叩かれてもしょうがない」という言説に対して、「見慣れているから何とも思わない」と言った。叩かれてもしょうがない人なんているのだろうか。過ちは誰にでもあるし、明日は我が身という考え方もある。なのに何故、そのような考えに及ぶのか。何とも思わなければいいのだろうか。けれども考えてしまう。

人間の無意識には何が潜んでいるかわからない、と思う。「強くなる」ことが、人間にとって気持ちが良くなるようになっているのではないか?と疑いたくなる。だからこそ、人を虐げてまで優位になってはならないし、自分が弱い存在であるということも知覚しなければならない。自分では、どうにもならない部分がある、ということも。それがわたしにとって、「明瞭でいる」ということだし、そのためには、無限に考え続けなければならないことがたくさんある。明日なるかもしれない自分の可能性であると考えないことはいくらでもできるし、自分には関係のないことだから、と切り捨てることは簡単にできる。そのほうが不安にならないし、生きやすい。それでもわたしは考える。明瞭でいるために。取り返しのつかない何かをしでかしてしまわないように。
自分に責任を持つ、という言葉をわたしはよく使ったりするけれど、それは決して「自己責任」ということではない。わたしは明瞭でいつづけなければならないし、命のある限りは生きて、思考を働かせなければならない。それがわたしの、わたしに対する責任の持ち方である。

そして弱くていいじゃない、と思う。たぶんわたしは競争することにあまり興味がない。負けず嫌いではあるけれど。でも、ひとつの勝負にこだわることが昔より少なくなった。そこで勝てないなら別のフィールドで戦えばいいし、そもそも戦わない選択肢をとればいいことにも気付いた。ついつい人と争いたくなったりもするのだけれど、自分と争っていたら、そんな暇はないことにも気付いた。そういう意味では自分のことしか考えていないのかもしれない。世の中のことはできるだけ広い視野で捉えていたいけれど。本当に矛盾している。けれども「どちらが正解かわからないことを考え続けること」が正解という可能性はないだろうか。均衡を保つというか。

そんなことを考えながら、引きこもって卒論を書く今日この頃。全く終わりが見えない。こんなこと書いてるから。もっともである。辛い。うーん。
来月の今頃には、もう少しのんびり出来ているといいのだけれど。

↓↓ 生きるのが楽になった本たち ↓↓

「真の自立とは、依存先を増やすことである」と岡田さんは仰っていた。岡田さんは「弱いロボット」の研究をしている。人間に完璧を求めてしまうように、ロボットにも完璧を求めてしまいがちなんだけれども、その中で、「弱いロボット」は何かできないだろうか。そして、これはロボットの話だけなのだろうか。ちなみにわたしは講義でお話を聞く機会があったが、とても面白く、興味深い内容だった。「弱いロボット」、一度会ってみたいなあ。
アリの集団には、「働かないアリ」がいる。「働きアリ」の話はよく聞くのに、「働かないアリ」の話なんて聞かない。でも集団の中には、確かにいるらしい。そのほうが、「効率がいい」から。でも、なんで?
しかし「働かないアリ」も、実は大きな目で見れば、ちゃんと重要な役割を果たしているのです。もしかしたら、目先の効率にとらわれて、働きすぎているのかもしれないですよね、わたしたち。だからついつい考えすぎて、非効率的になっちゃう人もいいと思うよ。きっとその思考はかけがえのないものになるよ。

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芥乃 いのり
新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。