『わかりあえない他者と生きる 差異と分断を乗り越える哲学』マルクス・ガブリエルは、キリスト教国でない日本に世界の調停役を求めている(多くの人のために役立つを第一に)
マルクス・ガブリエルの新実在論は、それほど難しいものではなく、意味の場によって(物質としての存在を含めて)世界が違い、それぞれの観点で重なる合う部分があるというものだ。
マルクス・ガブリエルは、西側は冷戦に負けたと断言する。ロシアと中国を合わせれば地球のかなりな部分を占め、冷戦には完全に負けた。中国の思想とマルクス主義の合体が叡智で、その実践が軍国化および産業化なのだ。また、対テロ戦争にも負けた。6万人のタリバンは山中でひたすら待っていた。こちら(西側)が撤退すれば、彼らは戻ってくるだけなのだ。さらに、ドイツにおけるシリア難民の受け入れは、彼らを難民として美化し、非人間化するという間違った動機で行われてしまった。本来ならば、彼らを庇護の権利を持つ人間として、自分たちと完全に平等に扱うことだ。
タリバンや中国の一部のように、対話を持ちようがない場合、私たちに(西側)できることは自衛のみだ。しかし、タリバンは日本人にアフガニスタン国内にとどまってほしいと公式に発言している。定期的にイランを訪れている日本人哲学者も多い。日本は交渉において、対話において、西側の中でもキリスト教国ではないので、交渉しやすい立場にある。そして日本は、ムスリムへの植民地主義や帝国主義の歴史がないため、中立的な調停役になれる。
しかしそれには、それぞれの意味の場を理解する必要がある。例えば、マルクス・ガブリエルの新実在論で、パレスチナ問題をまとめると、イスラエルという「意味の場」からパレスチナをPerspectiveすると、交渉相手にガバナンス能力がないことが最大の問題になる。なぜなら、タフな交渉でお互いが実行すべきことを決めたとしても、パレスチナ側は行政実行を行うガバナンス能力が不足している、という問題がある。
本書を読んでも明らかなように、マルクス・ガブリエルは、キリスト教国でない日本に世界の調停役を求めている。そしてそれが、自らの実在論を立証することにつながると考えている。しかし、彼の普遍主義(普遍的価値は存在する)という立場において、宗教を普遍的なものと位置づけていることには疑問を感じる。なぜなら、宗教はパーソナリティ心理学において、後天的に身につけるものだからだ。つまり、マルクス・ガブリエルの意味の場における重なり合う部分を普遍的な価値とするならば、そこに宗教は入らないということになる。残念ながら本書は、そこまで突っ込んだ議論が行われておらず、彼の意見をまとめただけで終わっている。
日本人には、自らの西側社会における唯一の調停能力を持つ民族だという自覚はない。内向きな思考に陥り、他の国と自らを比較し、一喜一憂しているのが実情だ。そういう意味では、日本人が自らの潜在能力を自覚する触媒の役割が、マルクス・ガブリエルに求められているのではないだろうか。(Peace and Happiness through Prosperityなのだから)