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『ミュンヘン Munich』(世界の歴史、パレスチナ)

 イスラエルに入出国した人は誰でも経験することだが、飛行機に搭乗する前に、なぜイスラエルに行くのか、誰に会うのかなどの詳細な質問攻めにウンザリする。搭乗者全員のセキュリティーチェックが終わるまで飛行機は飛ばないため、搭乗3時間以上前には空港に着く必要がある。

 日本とイスラエルの間に直行便の計画があるようだが、過去に一度だけ直行便が飛んだことがある。それは名古屋の小牧空港(現在の名古屋飛行場)からベングリオン空港への直行便だったが、狭い小牧空港は搭乗者のセキュリティーチェックで、他のフライトに影響する大混雑となってしまった。それ以来直行便は飛んでいないので、私は記念すべきファーストフライトに運よく搭乗したことになる。

 なぜ、イスラエルへの入出国のセキュリティーチェックがこんなに厳しくなったのか。

映画ミュンヘン(2005

 最近、ダーイッシュ(IS)のパリで同時多発テロがあったが、少し前のアルカイダ、そして1970年代のPLFP、ブラックセプテンバー(ミュンヘンオリンピック事件)など、テロ組織は変われどテロは連続している。日本にもテロ組織として、あさま山荘事件で有名な連合赤軍や日本赤軍があったが、特にグローバルな日本赤軍はイスラエルや中東で有名な存在だ。
 評論家の立花隆氏は、イスラム過激派に自爆テロの概念が伝わったのはテルアビブ空港(ロッド空港)乱射事件からだという。

 テロ活動はパレスチナ・ゲリラ組織(民族主義者の組織と左翼革命の運動組織)の軍事行動の一環として、ヒット・アンド・アウェイ的にイスラエルの国家組織(軍、警察、官庁など)に対して仕かけられた。あくまで敵に打撃を与えてすぐ逃げる生還を期す行為だった。

 危険な行動ではあったが、初めから必ず死ぬとわかって突っ込む自殺的作戦ではなかった。そこに自殺的特攻作戦を持ち込んだのが、日本赤軍のロッド(テルアビブのパレスチナ名)空港作戦だ。初めから死ぬとわかっていて突っ込む特攻作戦はアラブ人に衝撃を与えた。彼らには考えられない行動だった。オカモトはたちまち英雄にまつりあげられた。 

 パレスチナ人の革命派組織はオカモトを褒め称えたものの、自分たちが特攻作戦でそれに続こうとはしなかった。パレスチナ人が独自にやった特攻作戦の初めは74年のキャルトンシェモナ事件であるが、ちょうどこの頃、私(立花隆)はベイルートに取材にいっており、町中いたるところに特攻攻撃者を称える写真入のビラが貼りめぐらされているのを見て驚いたことを記憶している。その後、彼に従う特攻攻撃者はほとんど出ていない。あまりに合理性にかけているからである。

 パレスチナ人はもともと教育水準が高い人が多かった。それぞれの国でいいポジションを得ており、特に教育職、エンジニアなどの知的職業が多い。アラブ諸国に必ず一定数が住んでいて、パレスチナ人が持つ影響力は日本人が想像するより遥かに大きい。

 左翼革命主義者たちは合理主義者であるから自殺を前提とする作戦はとれなかったのである。しかし、イスラム過激派は宗教的信念にもとづいて死という前提を平然と乗り越えてしまった。神のために死ぬ殉教は生より望ましいものだったからだ。 イラク戦争、日本の運命、小泉の運命 立花隆著

 テルアビブ空港(現在のベングリオン空港)は、2000年ごろに改装されて新しくなったが、旧ベングリオン空港には到着口を降りると、真正面に岡本公三たちの乱射により亡くなった方々の名前を刻んだ大きな円形石のモニュメントがあった。
 その円形石は時計の針のようにひび割れ、乱射時刻を刻んでいた。以来、イスラエルへの入出国のセキュリティーチェックは世界一厳しいものになり、搭乗者は何時間も待たされることになってしまった。

 私がイスラエルでビジネスを行っていたのは第一次インティファーダの時期だと『エルサレムの旧市街からの発想』でお伝えしたが、そんな時期でも空港の待合室でひとりぐらいの日本人ビジネスマンを見かけた。
 あるとき、私の数人前でセキュリティーチェックを行われていた日本人ビジネスマンが急に大きな声(英語)で叫んだのに驚いたことがある。

「私を誰だと思っているんだ!」
「私は〇〇〇〇(某家電メーカー)の役員だぞ!」

 当時は、ユダヤ人 エズラ・ヴォーゲルさんの著した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の影響もあり、日本の企業は世界的に有名だったことは確かだが、空港のセキュリティーチェックで〇〇〇〇と、自分の所属している会社の名前を叫ぶのはどうなのだろう。
 しかも、前述のようにセキュリティーチェックが必要になった原因を作ったのは日本人だということは、空港にいるイスラエル人は全員知っている。
(同じ日本人として穴があったら入りたい気分になった)

 欧米人は、ユダヤ⇒キリスト教の流れはバイブルや教会で子供の頃から慣れ親しんでいますが、日本人にはエルサレムの旧市街は遠い存在です。しかし、その地域の歴史や人やボトルネックを学ぶことが、特に人と人とのつながりが重要なオープンイノベーションでは必要ではないか、と私は考えます。  エルサレムの旧市街からの発想


Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。