『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』ダブルバインドから発想すると日本社会が見えてくる(多くの人のために役立つを第一に)
2つの矛盾したコマンドが強制されている状態をダブルバインドだと言う。例えば企業の場合、何かの案件で相談に行くと「そんなこと自分で判断できんのか!いちいち相談に来るな」と言われながら、いったん事故が起こると「重要な案件は、何でもきちんと上司に報告しろ。なんで相談しなかったんだ」とダブルバインドで苦しむ。また、企業に求められている人材は、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見を言わない」となる。さらに、日本の社会全体には「異文化理解能力」と、日本型の「同調圧力」のダブルバインドもある。
ダブルバインドは、統合失調症の原因のひとつと考えられ、このような環境に長くいると、「操られ感」「自分が自分でない感覚」「乖離感」などを感じることとなり、引きこもりが起こりやすくなる。現在の日本社会は、コミュにケーション能力に関するダブルバインドが原因で、内向きになり、引きこもってしまっている、と筆者は分析する。
コミュニケーションにおいて、「あの人は話がうまいな」「あの人の話は説得力があるな」という理由は、冗長率を時と場合によって操作している人こそがコミュニケーション能力が高いという。冗長率とは、ひとつの文章、ひとつの段落に、どれくらい意味伝達とは関係のない無駄な言葉が含まれているかを、数値で示したものだ。親しい間柄だと冗長率は低くなり、極端な場合、「メシ、フロ、シンブン」となる。NHKの7時のニュースは冗長率が低く、9時のニュースでは冗長率が高い。日本の国語教育は、この冗長率を低くすることだけを教えてきた。「きちんと喋れ」「論理的に喋れ」「無駄なことは言うな」などがそれだ。しかし、本当に必要な能力は、冗長率を低くすることでなく、それを操作する能力だと筆者は主張する。
社会的弱者と言語的弱者はほぼ等しい。したがって、論理的に喋る能力を身につけるより、論理的に喋れない立場の人びとの気持ちを汲み取れる人間になれ、弱者のコンテクストを理解する能力を持ったリーダーを望む、という筆者の学生へのメッセージは目から鱗だ。
それには、コミュニケーションデザインも必要になる。例えば、医者が患者にペラペラと説明がうまいことではなく、患者が医者に質問しやすい椅子の配置になっているか、壁の色は、天井の高さはどれくらいが適切か、などのデザインが必要になる。
多文化共生は決して生易しいことではない、みんなちがって、たいへんだ。しかし、幸いにして日本は、海に囲まれていて、明日から難民や移民が殺到する国ではない。私たちは、天恵のように、あと20年、30年の猶予がある。いまから少しづつ、日本社会のダブルバインドを解きほぐしていく必要があると、締めくくっている。