『糸川さんとの出会い』
質問をよく受けるので、私と糸川英夫さん(以後、親しみを込めて糸川さんと呼ぶ)との出会いをまとめた。
私は糸川さんが種族工学研究所設立の準備をしていた時期に大学に入学した。頭の悪い私が入学できた大学は、愛知県の田舎にある工業大学ぐらいしかなかった。それにも関わらず、授業にまったく興味が持てず、ほとんど出席することもなかった。落ちこぼれのなかの落ちこぼれだ。しかし、「システム工学研究会」にだけは興味を持った。
そのサークルができたのが、Appleが設立された年と同じく1976年で、顧問は経営工学科の小田哲久先生(日本経営システム学会第18代会長)だった。当初、そのサークルを設立するために経営工学科の学生が中心になって動いたようだが、小田先生は「システム工学とは工学のための工学」であって、ひとつの専門学科の人たちだけが集まるならば顧問として支援できないと条件を出した。そのため、工業系の大学にある建築、土木、応用化学、電子、電気、機械などの各学科の学生が参加することになり、システム工学研究会は設立されることになった。
テニスサークルならテニスをするし、相撲部なら相撲の練習をするが、システム工学研究会が何をするかというと、ただ自発的にプロジェクトを行うだけだ。大学の喫茶店の人流分析をしたり、東海地区の大学生の美人コンテストショーを行ったり、ミニコミを発刊したり、当時発売されたばかりのパソコンで占いプログラムを作ったり、コンパをしたり、とにかく、思いつきで適当に活動するだけの団体だった。
特に工業大学は応用技術の専門家を育てるための教育機関で、機械の専門家を育て自動車系列に就職し、電子電気の専門家を育てエンジニアにし、各学科で専門家が養成されていく。しかし私の場合、授業はまったく面白くない。しかも、パンチカードでFORTARANやPL/1をIBMの大型コンピュータに流し込むとエラーが続出し、専門家としての才能すらない。しかしシステム工学だけは、専門家になるためのものではなく、専門のことは薄く浅く理解しつつ、それらを串刺し、束ねるものだ。これなら、頭が悪く専門家になれない落ちこぼれの私でも生きる道があると直感していたのだ。だから、授業には出なかったが、システム工学研究会の教室にだけはたまに顔を出していた。(居場所がそこにしかなかった)
日本で最初にシステム工学を使いだしたのはロケット研究だ。ロケット発射の現場で活躍した林紀幸氏によると、一番最初にペンシルロケットを打ち上げたときに組織としてできた班編成を書いた紙には、総指揮 糸川英夫、記録班、消火班、警備班、気象班、測量班、高速度カメラ班、ランチャー班、救護班とある。ここで面白いのは救護班があることだ。普通の人はランチャー班までは考えるが、救護班までは考えない。しかし、糸川さんは救護班まで考える。つまり、何をやるのも人間なので、怪我をすることもあるだろう。だから、その組織の作り方が大切だという。システムというと、勘違いしてコンピュータのシステムととらえてしまう人もいるが、当時、糸川さんは人を重要視した日本オリジナルのシステム工学である「組織工学」という言葉をすでに作っていた。システム工学、組織工学という学問は、糸川さんがロケット開発の分野ではじめて使い、ポピュラーにしたものだ。つまり、ペンシルロケットが発射された1955年には、システム工学は組織工学と呼ばれ日本に存在していたことになる。
そして私は、1980年代の初頭に、大学のサークルであるシステム工学研究会でシステム工学に出会うことになった。この段階で、私と糸川さんとは面識はないが、システム工学という共通の接点があったということになる。
その後、私は大学をドロップアウトし、名古屋でIT企業を創業した。23歳のときだ。当時(1980年代初頭)は、マイコン(現在のパソコン)が出現し、西和彦、孫正義など、IT業界には若き起業家たちが続々と誕生していた。科学技術計算のプログラマーのアルバイトを行っていた会社を辞めることになり、お世話になった顧客にあいさつにまわった。そのとき、ある40代の会社の社長から、突然と起業しないかという誘いを受けたのである。
1日考えてみたが、共同で会社を作ろうと決心した。当時は新しく株式会社を設立するには当時は最低資本金として500万円が必要だったので、私が250万円出資し、資本金500万で会社を設立することになった。その人が社長で、私が副社長となり、お互いが50%の資本比率になった。出資比率が対等なのでもめる可能性もあるが、当時はそこまで考えることもなく会社を設立した。強烈な円高がはじまるプラザ合意前の1983年のことだ。
最初は苦労したが、3年ぐらいでビジネスは軌道にのり、経常利益も出るようになった。1986年ごろから土地の値段が上がりだし、一緒にやっていた社長が自分の会社で不動産投資を行なうようになった。当時の銀行は、借りてくれ借りてくれと日参するのが仕事で、その社長は複数の銀行からお金を借りて、たくさんの土地を買い漁っていた。米国のカリフォルに、写真を10枚くらい並べないと一望できないような土地も購入していた。しかし、バブルが急速に膨れ上がる直前で、資金繰りが息切れしてしまったのだ。しばらくすると、突然行方知れずになってしまった。今ではあまり聞かないがトンズラ倒産というやつだ。私は数ヶ月前にそれを予知し、250万円の株式をその人から買い取り、難を免れ、代表取締役になっていた。
かつての共同経営者の周りにいた人たちに、社長になったことをあいさつにまわった。するとある人が、糸川さんの組織工学研究会が名古屋で行われていることを教えてくれた。前述したように、大学のシステム工学研究会というサークルの教室には顔を出していたので、ロケットで有名な糸川さんのことや、組織工学がシステム工学の日本版だということも知っていた。これによって、毎月の会合に参加するようになったのが、糸川さんと私の「出会い」なのだ。
結果的に、倒産してしまった共同経営者との出会いがなければ、糸川さんと出会うことはなかったということになるが、その後、名古屋の事務局のお手伝いをするようになり、まさか東京の組織工学研究会を閉鎖するとろこまで関与するとは夢々思わなかった。
次の写真は、1989年12月19日に組織工学研究会(名古屋)の忘年会で糸川さんと撮った写真だ。糸川さんは組織工学研究会においての忘年会とか新年会のようなものには基本的に参加しない。私の記憶では、糸川さんとの忘年会は、このときと、1994年12月に六本木の第一勧業銀行の3階会議室(現在のみずほ銀行)で最後の組織工学研究会を終えてから、糸川さんとアンさん(「あんた誰よ。東大のセンセイがなんだっていうの」 “日本の宇宙開発の父”糸川英夫が家を捨てて過ごした“アンさん”との日々)の3人で世田谷のご自宅近所の荒川さんが経営する居酒屋に行ったときしかない。
名古屋の組織工学研究会の忘年会で撮った糸川さんとのピンボケ写真。糸川さん77歳、私が30歳。ペアでの写真はこの1枚しかない。