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書籍「FMWをつくった男たち」

「FMWを作った男たち」小島和宏(彩図社)


元週プロ記者によるFMW創世記関係者の証言集。

昨年出たW☆ING本の前史にあたる内容で、重複する関係者も多い。


この本のポイントは2つあって、1つはFMW旗揚げ以前の状況確認から旗揚げ2年目の川崎球場初進出までの約3年間に話を絞ったこと。

もう1つは創設者の大仁田厚には話を聞かなかったこと。


大仁田厚が語るFMWの物語はこれまで散々語られてきたことであり、繰り返しになる。

「大仁田の頭にある歴史」と「大仁田の周りにいた人たちが見た歴史」は同じではない。

そして同じ本に大仁田が出るということはその分、周囲にいた人間の口が閉じがちになる。

小島和宏はそう考えて周辺の関係者だけに取材した。

これは柳澤健が「1984年のUWF」というノンフィクションを書いた際に前田日明には話を聞かなかった理由と同じだ。


かくしてこの本では日本のプロレス史を大きく変動させることになるFMWの設立直前、設立直後の様子を「そのときプロレス界はどういう状況で、当時の大仁田厚はどういう人で、私たちはそれをいかにサポートしたのか」が語られる。


FMWが設立された1989年、プロレスは「選ばれし者」だけがリングに上がれる環境だった。

団体はジャイアント馬場の全日本プロレス、アントニオ猪木の新日本プロレス、前田日明たちがやっていた(新生)UWFの3つしかなく、その3団体に入れなかった人間は夢をあきらめるしかなかった。

(当時の空気感は大相撲に似ている)


そんな状況で5年前に全日本プロレスを引退していた大仁田厚は自分の団体を作る。

集めた選手はどこかの団体に入ったものの徐々にフェードアウトして消えていった者、海外で試合してたが拠点を日本に移すことにした者、アマチュアで他の格闘技をやってたがプロレスは未経験だった者。


スタッフもまた募集で集まった未経験の若者数名。給与は月給10万円。

1989年は「フリーター」という言葉が世に広まり始めた時代だ。

プロレスに限らず、夢が夢として成立する時代だった。



この本では何も持たない元プロレスラーがいかにして「大仁田厚」に変わっていったか、仔細な証言が得られる。

旗揚げ当時、誰もお金がなかった。

大仁田は自分でカレーを作り、みんなが小銭を出しあって買ったソーセージを入れて、それをみんなで食べた。

メインカード以外は何も決まってなく、若手社員が対戦カードを考えた。

そんな牧歌的なエピソードがたくさん挟まれる。


ノンフィクションとはちょっと違う。

あくまで証言集であり、回顧録だ。

それでも当時を知る人間からすると胸を打つ話がいろいろ出てくる。


旗揚げ当時、大仁田はよく泣いた。

「感極まる」という言葉があるが、大会のたびに感極まっていた。

大仁田は泣きながら「僕にプロレスをやらせてください!」とよく叫んだ。

これでやっていけるのか。

いつまでプロレスができるのか。

自信よりも、不安が大きかったのだと思う。

その不安が、リングサイドの観客から声援を浴びている時間だけは感じないですむ。

ケガで全日本プロレスを追われ、引退して始めた他の事業も上手くいかず、道路工事の現場に出ている時に「プロレスの大仁田さんですよね?」と言われた屈辱が、リングにいる間は消えてくれる。


大仁田が当時試合のたびに泣いていたのは、演技ではなく素の感情だったと私は思っている。

その大仁田の一人称が「僕」から「オレ」に変わり、「プロレスをやらせてください」という懇願が「プロレスが好きなんじゃあ!」という宣言に変わる瞬間のことが、この本には出てくる。


そしてその瞬間こそが、この本のエンディングにつながっていく。


この本の主役は当時のFMWの裏方スタッフである。

どうやって会場を抑えたり、どうやって興業ポスターを張っていいかもわからず迷い、大会中にマイクが壊れたら地声でアナウンスをし、生活を切り詰めながらプロレスという夢にかけた若者たちを描きながら、どうしても頭の中にあるのはまだ長髪だった頃の、木訥としたしゃべり方をする大仁田厚の姿である。

これは「大仁田厚が自分を『僕』と呼んでいた頃の物語」でもあると思う。



1989年12月10日、私は旗揚げ2ヶ月目のFMWを見に行った。15歳の冬。

その時期は中学校の期末試験の真っ最中で、家で終日勉強するつもりだったが友人M君の「小中学生500円だよ、500円!行こうぜ!」という電話で、夕方から後楽園ホールに向かった。


試合前の会場にはプリンセス プリンセスの「Ding Dong」という曲が流れていた。アルバムをそのまま流していたのかもしれない。

それを聞いて「もうすぐクリスマスなんだな」という思いと、「勉強しないで俺、こんなところで何やってるんだろう」と思ったことを覚えている。

初めて見たFMWは今の言葉でいうグダグダで、「これ…プロレスなのか?こんなんでいいのか?」みたいな試合も多かった。

その最後に出てきた大仁田は四方を有刺鉄線に囲まれたリングで空手家2人と戦い、勝利した。

日本のプロレスで「デスマッチ」がほとんど行われていなかった時代、先の尖った有刺鉄線を身体に押し付けられ、血を流す大仁田の姿は衝撃的だった。

けどそれ以上に「僕にプロレスをやらせてください!」と訴える必死さの方が心に残った。


思えば、人が心から叫ぶ姿を見たのはあれが初めてではなかろうか。

あの必死さに心打たれてそこから私はFMWを見に行くようになる。

当時、見ていた人の多くは大仁田厚のあの必死さ、持たざる者が何かを掴もうとする姿に心打たれて、観に行くようになってたんではないだろうか。


成功とともに「持たざる者の必死さ」が変容していく姿を、この本に出てくる数々の証言は照らし出す。

でも時間が経ってみると、それもまた人間だし、それもまた人生じゃないか、という気もしてくる。


大仁田厚に採用され、初期FMWではリングアナウンサーを務め、後にFMW社長に就任する荒井昌一は社長時代、創設者である大仁田を団体から追放する。大仁田は金銭面で大きな負担を荒井に強いていた。

そのとき荒井はこういう言葉を残した。


「大仁田厚の99%が嫌いでした。でも残りの1%が…」


この「1%」に詰まってるものこそ、この創設期によくしてもらった思い出そのものではないか。一緒に鍋からカレーを食べ、対戦カードを考えた時代。


大仁田厚は泣いて、ファンに約束して、その約束を破って、強弁を続けては時々弱さを見せ…という姿を巧みに見せ続けた。

7度引退して7度復帰する。普通の感覚ではありえない所業。

大仁田厚は64歳になった今もなおプロレスを続けている。

「僕にプロレスをやらせてください」と泣いて叫んだ日から33年。今では誰に断ることもなくリングに上がってプロレスを続けている。



私が好きで観に行くDDTプロレスにも、時折大仁田厚が参戦してくる。

もう昔のような沸き立つ感情は何もない。反発するエネルギーもない。

まだやってるんだなあ、と遠くの河岸を見るような気持ちで試合を見る。

それでもなお、33年大仁田が入場テーマに使っている「Wild Thing」のイントロを聴くと、胸の奥があの1989年冬の後楽園ホールに持っていかれてしまう。

荒井さんがぬぐえなかった「1%」は、今も私の中に残っている。


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