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好きという気持ちがわからない。

一時期、私は「好き」という気持ちがよくわからなくなっていました。

特に婚活していた期間はもうわけわかめで、条件ばかりを確認しており、シンプルに誰かを好きになるなんて不可能じゃないのかとすら思っていた。

もちろん人だけではなく、物や事や時間や、さまざまな自分の「好き」という気持ちの輪郭がぼやけてしまって、どんなことにわくわくするのかとか、どんなものに楽しいと思えるのかもわからなくなっていたんです。

レコメンド機能で流れてきた動画や音楽を脳死で見たり聞いたりしては、これが自分が見たかったやつだっけ?聞きたかったものだっけ?といつも煮え切らない。

やりたいことも、見たいものも、身にまといたいものも、人生を共にするパートナーですらどんな人がいいのかも、自分のことなのに私自身がわかってなかったんです。

多分、ものすごく疲れていた。

何をしているわけでもないのに、考えることも、決めないといけないことも、物も溢れていて、ずっと疲れていたんです。




今の夫になる彼と出会った時も頭の中はいつもごった煮で、自分に自信もなくて、「どうせ人の気持ちなんていつかは変わってしまうのだから、期待してはいけない」と思っていました。

ある日、彼に「俺の気持ちをいのちゃんが決めないでよ」と言われたことがあったんです。

それを言われた時に、確かに私は自分の気持ちですらよくわかってもないくせに、他人の気持ちはきっとこうだろうとか、こうなるだろうなんて決めつけては感情が乱されてしまうことがありました。

勝手に妄想して勝手に傷ついてこんなに辛いならもう一緒にいたくないという謎ループが止められなかったんです。

エッチの後に男性が寝てしまって「私って大切にされてないのかも…!」と思ってしまう情緒不安定な女性がネットでは溢れていますが、それを見たときに「私やん」と思うくらいにはなかなかに情緒不安定でした。




このままでは、大切にしたい人を傷つけてしまうと思い、まずは自分を理解したいと思うようになりました。

他人はこう思っているだろうではなく、自分はどう感じるのか、思うのか、とにかく言葉未満でただの思考になってしまっているものをまず言語化することを始めたのです。

言葉にした時に、何故そう思ったのか理由や経緯も添えること。

これらを紙に書いたり、スマホのメモ帳に書くことをとにかく毎日やり続けていました。




言葉にしてみるとぼやけていた輪郭がはっきりしてきて、「ああ、そうだ私ってこういう人間だったよね」と客観的に見れるようになったのです。

自分の考えを理解してくると本当に不思議なんですが、他人はどう考えているのかを気にしなくなったし、相手が本当はどう思ってるのか気になった時はちゃんとその場で聞くようになりました。

お気持ち族の私は基本的に裏の裏を読もうとしては勝手に妄想してしまうのですが、聞けばいいんですよね。どう思ってるか。めっちゃシンプル。

特に夫は言ったことがそれ以上でもそれ以下でもないことが多く、言葉に裏表がない人でした。

私がビビりちらしてるだけで、もしや世の中の人って案外言葉に裏表がない人のほうが多いのかもしれません。※ただしクズ以外←過去に何があった

それなのに裏を読み取ろうとしてはドツボにはまっていたんですが、相手の言葉をまずシンプルに受けて、それから自分がどう思うかを頭の中でしっかりと言語化する癖をつける、疑問に思ったときは相手に失礼のない範囲で聞いてみるということを繰り返すようになりました。




言葉にするようになってから、子供の頃みたいな好きという気持ちが沸き上がるようになってきて、心が元気になっていくのを感じました。

私にとって「好き」という気持ちは心の栄養なんだと思います。

人でも物でも芸術でも、感動する気持ちが原動力になっていて、文章に温度を感じると嬉しい気持ちになるし、歌にその人が見えると涙が出るほど共感するし、美しいものを見ると世界が輝いて見えるし、おいしいものを食べると体の細胞が喜んでいる気がする。

そんなふうに五感を刺激して生きていくために、私は私の思考を言葉にしたいと思うのです。




先日江頭2:50さんのエガフェスというものがありまして、その時に江頭さんが「かっこ悪く生きていこうぜ!」と最後に言っていました。

その前から過呼吸になりそうなくらい泣いていた私ですが、「ああ、江頭さんの言葉だなぁ」とじんわりとしたのです。

誰が言うかで言葉というものは熱を帯びる。

私は本当に不器用でいつも遠回りをしては満身創痍でゼエゼエしていることがよくありますが、そんな不器用な自分も愛せるように。

これからも自分の言葉で文章を書き続けられたらいいなと思うでした。











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