『イメージの奥底で』を読む #1
「イメージ」というと対象を認識・知覚する際につきまとってくるもの、往々にして「本当は正しくはないけれどなんとなくそう思っているもの」というニュアンスがある。ように思う。
「イメージ」は物に何かとついてくるけれども、物とは違うものと考えられている。「イメージ通りだった」という場合、特にそれが顕著に表れる。「AがAと同じ」は同語反復だけど「AがBと同じ」はAとBの間に関係性が設定されている。
カタカナで「イメージ」はそうした事物から離れたものとして捉えられることが多いけれども、現れているものがそのイメージならば私にとってその対象はそのイメージそのものなのでは?とも考えられる。英語やフランス語のimageは心の中に抱く像や映像の他に、絵画や彫刻で表現された姿や形という「具体的なもの」という側面も持っている。イメージは抽象的なだけではなく、「具体的なもの」でもある、という話。
…にはならなかった(追記)。
さて、ナンシーの話にしましょう。
ジャン=リュック・ナンシーの紹介はしないのでwikipediaでも読んでください。と思ったけど思った以上に大したことが書いてないので、一応入門書をあげておきます。おすすめというより、ナンシーに絞った入門書を他に知らないだけです。
幅広いですが、ざっくりしたことだけ言っておくと共同体論、イメージ論の人でいいと思います。あんまり少し突っ込んだ話をしてもあれもこれもとなるだけなので、ざっくりとだけ。
『イメージの奥底で』は1999年から2002年までの期間にまとめられた講演原稿や論文などをまとめたものです。
この本を概説していくことが目的ではなく、自分が面白かったところをまとめていくだけがこの記事の主眼になります。読者への配慮は以下なくなります。
今回は最初の論考「イメージ−判明なるもの」。
ほとんど内容をなぞるだけのメモ。
と思ったらなぞることすらできなかった。ここから先は読んでも道に迷うだけになりますが悪しからず。迷わずむしろ導いてやるという方はコメント欄へお願いします(追記)。
聖なるものと宗教的なもの
イメージとは聖なるものである [...] 「聖なるもの」は「宗教的なもの」とたえずその語義を混同されている。ところが宗教とは、結びつき(他者ないし自己自身との結びつき、自然ないし超自然的なものとの結びつき)を形成しそれを維持する祭式の遵守なのであって、それ自体としては、聖なるものへと収斂されるべきものではない(宗教はまた信仰へと収斂されるべきものでもない。そもそも信仰はまた別のカテゴリーである)。聖なるものは、これに対して、分離されたもの、距離を置かれたもの、切り取られたものを意味する。 [p.9]
ナンシーはまずイメージとは聖なるものである、とした上で、この「聖なるもの」が「宗教的なもの」との関係で混乱があることを指摘している。ただしこの「イメージ=聖なるもの」という規定は暫定的なものとして置かれている。
「聖なるもの」は神聖なものとして他のものと隔離され、区別されていなければならない特権的なものだといえる。信仰と区別される宗教は共同体の在り方と考えられるが、それは連帯の様式だろう。ある宗教に参画することはその共同体の中で、往々にして神を拠り所にして繋がりを持つことだと言える。
しかし神そのものや神を表象するものが特権的であるには一般的な信者たちそのものとは区別されて切り離されなければならない。一般的な信者たちが信仰の対象となるような宗教は一つの宗教としての統一性を維持できないだろう。
「聖なるもの」は「宗教的なもの」のうちにあって区別される故に、「宗教的なもの」に還元はされないので、「結びつきと切断」という点では対立しているのだが、宗教は「聖なるもの」と結びつきを持つことによって維持されているという点で、両者は共存しているようにも思われる。しかしそれは宗教的なものが「聖なるもの」に依存しているだけであって、「聖なるもの」は必ずしも「宗教的なもの」に依存しなければならないということではない。自律性を持っているのである。
・「聖なるもの」は「結びつき」をもたないことによって「聖なるもの」でありうる
そんなに極端な話だろうか? 宗教的なものは「聖なるもの」の聖性に踏み込まない形で接近するのではないか。
ナンシーは「それでも聖なるものとのあいだに結びつきをもとうとする行為」が「供犠」であると述べる。「聖なるもの」は特権的な「供犠」という形式での接近が可能になるのだが、私と他者との結びつきのような一般的な仕方での接近を排除することによって、区別され「聖なるもの」であることを維持し続ける。
宗教が一つのカテゴリーとして維持されるのはこの「供犠」による「聖なるもの」への接近によってであって、「供犠」が終わると今度は別な「区別」が始まり、そこから「宗教との距たりにおいて」芸術が始まるかもしれないとされている。
聖なるものと判明なるもの
判明なるものとは、その語源を遡れば、様々な漂徴(マーク)によって分離されたもののことである(この語は、刻跡(スティグマ)、鉄ごてによる烙印、刺傷、切り込み、入墨へと送り返される)。それは、ある描線(トレ)が引き抜き、距ておきつつ、この退隠(ルトレ)の描線によって標記もするところのものである。また、判明なるものとは触れることのできないものである。というのも我々がそれに触れる権利をもたないからではなく、それに触れる手段を欠くからでもなく、弁別的な特徴線(トレ・ディスタンクティフ)が、もはや触れることの次元にはないものを分離するからである。[...] この触知しえないものは、みずからを距ておく描線(トレ)のもとで、また自らの描線によって、あるいは自らを距てるこの散逸の描線(ディストラクシオン)によって姿を現す[...]。 [pp.10-11. 強調は著者による。ルビは括弧内に落としている]
「聖なるもの」の区別が終わり、今度は「判明なるもの」という区別が表れる。
まず「線」を意味するフランス語のtraitの中に「後退」や「取り消し」を意味するretraitが差し込まれている。字面を見てわかる通り両者は同じ語源を持っている。
対象が「判明である」とされるためには、その対象の輪郭が明確でなければならない。つまり他のものとは切り離され、「区別」されていなければならない。輪郭線によって「判明な対象」はその他諸々と切り離されている。しかしそれに「触れることができない」とは何を意味するのか。
これは「触れてはならない」という命令なのではなく、原理的に触れられないものの次元を確立する。判明であるためには周りとは決定的に区別されるラインがなければならない。永久に孤立するわけではなく、何かの拍子に他のものと混じり合ってしまうようなものかもしれないが、少なくともその「判明なもの」が対象として浮かび上がっている時には、周りとは決別している。
しかしこの触れることのできないものは、描線によって自らの形を確立し、他のものから隔てるのだが、自らを隔てる描線は「散逸の描線」でもあるという。dis-traction、気晴らしや娯楽、不注意、流用、横領を意味する語だが、ここにも描線traitが入りこんでいる。
描線は形をつくることで判明なものを切り取る。判明なものは描線の内側で自らの形に結び合わされるのだが、描線の外側からは分離される。
判明なるものは外部から隔てられるがこの隔てられ方が二種類ある。判明なるもの、イメージは事物そのものではない。本質的に事物から区別されてはいるが、エネルギー、強度、暴力とも重なり合いながらも完全に一致はしない。
聖なるものにおいては、供犠という正統性を与えられた侵犯によって、区切られた境界の乗り越えが用意されていた。むしろ完全に断絶するのではなく、その手続きを踏まなければ乗り越えてはいけない、というアクセスの制限こそ、聖なるものをそれ足らしめるものだともいえる。
それに対してイメージの区別は供犠に類似していながらも、本来的に供犠ではないという。そこには正統性も侵犯もないのである。それは距離を踏み越えながらもイメージであるという自らのしるしによって、距離を維持する。この同時性によって特徴づけられる。異質なものとして確立するイメージは他のものとの連続性を打ち立てずに自らを確立する。
連続性というものは、不分明な同質空間の内部にのみ場をもち、この同質空間は諸事物から、そしてそれらを結び合わせる諸操作から構成される。これに対して、判明なるものは、つねに異質なものであり、連鎖を解かれたものーー繋ぎ止めることのできないものーーである。[p.14]
言葉を例にして考えてみると、ある言語体系の中に統一された当権利で同質なものが、文法規則によって結び合わされ一つのテクストを形作る。単語はそれぞれとして別のものでありながら、その言語内では同質のものとして連続している。
それでは諸イメージの連合、連想といったものをどう考えれば良いだろうか。イメージもまた他のイメージと連合し、連続性を打ち立てるのではないか。
イメージ、情熱、表現
同じ描線が、同じ区別が、分離するとともに通い合わせる(分離そのものを通い合わせつつ……)ことができるのは、イメージの描線(その輪郭、形態)がそれ自身、内奥の力(のような何ものか)だからである。なぜならこの内奥のちからをイメージが「再現前化」するのではなく、イメージこそがその力であり、それを活気づけ、引き寄せ、引き出し、引き止めながらも抜き出すからである。そしてこの内奥の力をもって、イメージは我々に触れるのだ。(p.17)
イメージのもつ区別する力、判明なものにする力は「情熱の力」とされ、イメージはその情熱を無媒介的に伝達する。むしろイメージがイメージとは異なる「情熱の力」を「もつ」というよりも、イメージがその情熱、あるいは情動そのものだからこそ無媒介的に伝達されうる。これは意味作用を与えず、志向性でもないもの、主題・主体をももたないものだ。これが情熱=パッションだというのは、意識的な再構成によるのではなく、根源的に受動性だからだろう。
それはしたがって、再現前化ではなく、内奥のものとその情熱(その興奮[モーション]、動揺、緊張、受動性)の刻印である。[...] 刻印は形態を欠いた基体の受容性であるとともに、形態の能動性でもある。刻印の力は、これら二つの混合なのである。(p.21)
イメージは形態そのものでも、形式でもない。それは形・形態そのものが形態化する力なのだ。ただしイメージが形を持たないということでもない。ただ物の輪郭、認識としてカテゴリーと同じものとしてイメージを考えてはならないということだろう。
イメージは私に触れる。そのようにしてイメージによって、イメージのうちで、触れられ、引き寄せられた私は、イメージと混ざりあう。私自身もまたそのイメージに似て〔à son image〕いないかぎり、イメージというものはありえないからだ。だが私が少しでもイメージを眼差す〔regarder〕かぎり、つまり少しでもそれを顧慮〔égard〕するかぎりは、そのなかに入り込むことなくイメージに似なければならない。(p.21 〔〕内は訳者による)
イメージは事物そのものとは区別されるし、形態・形とも区別されている。イメージが事物そのものではないのは良いだろう。私たちがぼんやりとイメージとして見ている時に事物そのものと重なり合うことはあっても必ずしも一致しない、ということがある。とはいえイメージを介さない知覚があるかという問題もあるので、イメージの背後に事物そのものがある、ということは想定しなければならないことになる。
イメージはぼんやりとして、形を容易に変えるものなので、確固たる物の形とは違う、と言えるだろうか。ある意味ではそう言えるかもしれないが、ここでナンシーがイメージの力を「形態」と区別するのは、その「散逸の描線」としての力である。イメージに引っ張られて認識のカテゴリーが変化することを考えたら良いかと思う。イメージはただの形態ではなく、形態を変化させる形態だということができるかもしれない。それは内容と形式の二項対立における単なる空虚な形式ではない。
私がイメージを見る。むしろイメージが私に触れる。私に能動性は割り当てられていない。イメージが自らを主体に割り当てる。私はイメージの分節に沿って、私が構成するのではなく、否が応でもイメージを押しつけられる。情熱=パッションにおいてイメージはみずからを表現=エクスプレッションするのだが、主体がイメージを構成するのではなく、イメージがみずからを外に押し付ける(プレス)することなのだ。
これは言葉遊びなのではなく、表現の本来的な意味でそうだ、と言える。私たちは表現をする時に何を表現しているのだろうか。既に頭に明瞭に浮かんだものに形を与えるだけなのではない。頭の中で文章を思い浮かべる時ですらそうだ。仮に頭に思い浮かべた文章を文字に書き起こすとしても、その頭に思い浮かべた文章はどこから出てきたのか。それは私が意識する前に作られて、意識の対象として表象されてくる。その原型を形作る主体が何かというのはさておき、私が意識的に文章を組み立てる以前の参照項がなければならない。
私はイメージに沿って分節し、イメージと混ざり合っていく。そこには私とイメージとの類似性があるのだという。しかしイメージはみずからを描線で区切っている限り、私自身とは決して合一しない。イメージの中に入り込むことなくイメージに似なければならない。
ここで議論の繋がりが特に読み取れないのだが、私とイメージの関係から、イメージとの事物の類似へと議論が移る。
物とイメージ、みずからを呈示すること
イメージは事物それ自体をもって力と天空を結集させる。イメージはこの結集の親密な統一体である。それは事物ではなく、事物の模倣でもない(すでに述べたように、それは必ずしも造形的ないし視覚的である必要がないのだから、なおのこと事物でも模倣でもない)。そうではなくーーこれは事物ともその模倣とも異なることなのだがーーイメージとは事物の類似である。その類似性において、事物はそれ自体から引き離される。イメージは「事物そのもの〔chose même〕」(あるいは物「自体」〔chose « en soi »〕)ではなく、そのようなものとして現前する物の「同じ=それ自体であること〔mêmeté〕」である。
ここでいう天空とは触れなかった箇所に説明されているが、イメージが到来してくるところの場である。しかしこれは天空といっても宗教的な天国でも観念的なイデア界でもない。天空と大地以前に、それらが結び合わされていたときに判明なものはなかった。それらが分かたれる時に現実が現れる。本質的に「みずからが明るみにもたらす大地」から区別されるが、天空は「それ自体が区別化であり、距離」だと述べられる(p.18-p.19)。これだけではそれこそイメージの域を出ないのだが、それ自体は判明なものとして現れはするので、意識から排除された無意識的なものや否定性でもないが、かといって大地ではないので意識の直接的対象となるような肯定性でもないのだろう。天空の存在によって差異化がもたらされる。
天空も「区別化」「距離」だと言われるが、それが情熱である描線の力とイメージにおいて結び合わされる。両者の役割が重なっているようで十分に理解できたとはいえないが、さしあたりイメージは差異化、区別化の力が渦巻く場なのだろう。
この場としてのイメージは事物そのものでも、事物のコピーでもない。しかし事物の類似ではある。「似ている」ということで、「同一ではない」ものとして引き離される。ナンシーによればむしろ、事物が「同じ」であることを担保するものがイメージそのものだという。
たしかにリンゴを描いた絵や写真と、リンゴ(そのもの)は同じでありながら、イメージはリンゴそのものではない。しかし、じつはそれらが同じだということを担保するのが、まさにイメージの力なのである。[澤田、p.135]
イメージ本来の力とはナンシーによれば、リンゴの絵や写真がどこにも「これはリンゴである」と書かれていないにもかかわらず、あたかもそのような発話を伴って私たちの目に飛び込んでくるということなのだ。この非言語的表明によって、イメージは自らの同一性を見る者に表明する。 [澤田、p.136]
事物とイメージは確かに区別される。しかしそれは知覚の別な様態としてのイメージではない。むしろナンシーによれば全ての知覚において常に既にイメージが裏面に潜んでいるということになるだろう。
事物がみずからを現前化するのは、それがみずからに類似し、みずからについて「私はこの物である」と(無言で)述べるかぎりにおいてなのである。イメージとは、事物をその〈それ自体であること〔同じであること〕〉において非言語的に言うこと、あるいは示すことである。(p.24)
事物が現前し、みずから「私はこの物である」と述べるというのはまだわかるような気がする。私たちが事物を知覚する時、そして私たちが事物から意味を受け取るとすれば、事物が自分はそれそのものであると主張していて、その主張を受け取っているのだ。それが「みずからに類似」するとはどういう事態か。
「私は私ではなく別のものです」と言っている人がいたらどう思うだろうか。それはそれでこの言明からは誤魔化しや偽装、あるいは誤解を解こうとしているなどの意図を感じ取るだろう。では記号に置き換えてみよう。「AはAではなくBです」。Aが実はAではなくBだったということになる。一方、「私はこの物である」という言明は「AはAである」というトートロジーだといえる。一つの言明の中に、Aであるのだから同一なはずなのに操作的にAが二つに分かたれている。分かたれているといっても、それは同一性として分かたれてはいないことになっている。ここで事物が「みずからに類似する」というのは、このAとAが同一のものとして担保されるという事態のことだといえる。しかしこの同一性は言語と概念の同一性とは異なるものだとも述べられている。
しかしこの〈同じであること〔それ自体であること〕〉は、たんに言われないのではなく、また、別の仕方で「言われる」のでもない。それは、言語と概念の〈同じであること〉とは「別の同じであること」であり、同一化にも意味作用にも属さず(例えば「パイプ」という意味作用)、イメージにおいて、イメージとして、それ自身によってのみ支えられる、〈同じであること〉なのである。(p.24)
イメージが事物と類似するのはそのイメージに「これはパイプである」といったキャプションがついているからではない。言葉によらずにイメージは事物と類似したものとして知覚される。しかしそれは別の仕方で「言われる」のでもないという。つまり象徴的秩序に対しての「感性的世界のロゴス」とも異なるといったらいいだろうか。ここでナンシーが言わんとすることを上手く汲み取ることができないが、言語的な意味作用や同一性とは別なイメージの秩序を考えようとしていることはわかる。
イメージの区別は、類似性に宿り、働きかけ、ある種の間隔化と情熱の衝動によって類似性をかき乱す相違性である。(p.24)
イメージは事物と類似する。しかしイメージは事物と同じではない。それは少なくとも対象=客体ではない。それは対象に宿り区別と形態をもたらす。(事物の形態がイメージによってもたらされるから類似するのか?)現れるイメージは事物に類似するものとして現れるのだが、そのイメージの分節に沿って類似性を生み出すために、従来考えられてきたような同一性としての類似性をかき乱していく。しかしそれはサルトルに代表されるような古典的な「不在」としてのイメージとも異なる。「不在」としてイメージが捉えられるのはそれを捉えようとした瞬間に事物の中へ退き退隠するからだ。それでも私はイメージに触れている。しかし退隠と当時に超出するという二重性(あるいは同一の運動。差延することで退いていく)をナンシーは述べたいと思うのだが、イメージがどのように超出するのか。それは同一性の中にある「自己において自己から差延する同じもの」の力としてそれは自らであるという同一性をかく乱するのだろうが、今ひとつ自分の中で消化しきれていない。
できるだけ他のテクストを参照せず、内在で読みたいと思いつつ、それがそもそも難しいのか読解しきれていないのか両方なのか。最初は読書ノートとして書き散らかそうと思ったけど思いの外まとまらずダラダラ先延ばしにしてしまった。「イメージー判明なるもの」は短い論考ながら中々読み進められない。記事を下書きのまま溜めておくと精神衛生上よくないので、一旦頭をリセットするためにここで一度切ろうと思う。