「好きな小説」のはなし


まえおき

人に本を紹介するという機会を得た。

それだけならいくらでもあるだろうけれども、「好きな小説」を紹介してくださいというものだった。

いざ考え始めてみて、人に紹介するほど「好きな小説」が特に思いつかないという結論に5秒で至った。

そもそも自分は食べ物の好き嫌いが薄く、嫌いがないが好きもない、食べ物に限らずそういう傾向がある。しいて言えば形の残った虫系は食べるのに抵抗がある(でてきたら食べる

自己紹介で好きなものを教えてください、と言われても困ってしまう、そういうタイプの人間。

それはさておき、「好きな小説」というお題がが困るのは、「好きな」がないこと、それから「小説」がほとんど家にないことだ。

場所がなくて実家に置いていたりというものもあるので、自宅の本棚から見つける必要もないのだけれど、割と急ぐ話だったので、さすがに手元に現物があった方がいいだろうと、自宅の本棚を探すことにする。どうしよう。

こうして改めて考えてみると自分は大して読書が好きではなかったんだな、ということに気付く。

小説や文学も味わうなんて行為からは程遠く、必要だから読まなければならない、情報として仕入れるという感覚で、いってみれば文学的センスは欠片もない文学部生だった。


『ウンベルト・エーコの文体練習』

というわけで急に本題に入るけれど、私が今夜いただくのはこちら。

マーケットプレイスで16円から6,712円まであるのでギョッとする。

以下、『文体練習』と略したり略さなかったり。

Amazonがお好きでない方はお近くの図書館なり、e-honで近くの書店に取り寄せるなりどうぞ。

私の手元にあるのは新潮文庫版だけれど、河出文庫から増補の「完全版」がでているらしい。


新潮文庫版の中身はというと、元々『ささやかな日誌』(Diario minimo, Bompiani 1992)という本から選ばれた12篇に、別な短編集からも1つ加えた日本語オリジナル版。(ただ訳出する作品の選択や配列などについては訳者とエーコで相談をしているらしいので、そのあたりのことはあまり気にせず楽しんだらいいのではないかと思う)

どんな短編集かといえば、12篇全部が何かしらの作品のパロディになっている、パロディ集だ。

しかし、どれが何のパロディになっているか正確に掴める人はそう多くはないのではないかと思う。

少女ではなく老婆に熱烈な恋をする主人公を描いた「ノニータ」あたりはわかりやすい(ナボコフを読んだ人がどれだけいるかはさておき)。

ただこの短い書の中に「本書の読者のためのブックリスト」がついており、古今の古典、聖書からボルヘスまで実に27冊が掲載されている。とはいえ通りがかりに名前が挙がっただけであまりパロディとは言えないもの、一つが2ページ程度で短く項目立てられた「涙ながらの却下ーー編集者への読書レポート」のようなものもあるので、一概に挙げられた27冊全部を読んでいる必要もないだろう。

レヴィ=ストロースになぞらえたイタリア「原住民」についての文化人類学的レポート(のパロディ)である「ポー川流域社会における工業と性的抑圧」とか。

他にも詳しい解説はできないものの…

コロンブスの新大陸発見をTVの中継番組として戯曲形式で描いた「アメリカ発見」(何を言っているのか自分でもわからない)

いまこの瞬間から、わたくしどものラジオテレビ放送は連続25時間にわたって常時回線を結んでお届けする予定になっております。回線は、旗艦サンタ・マリーア号に据えつけたテレビカメラ、カナリア諸島の中継基地、そしてミラノのスフォルツェスコ・テレビ・センターはもちろん、さらにはサラマンカ大学とウィッテンベルク大学ともつながることになっています。

初っ端から荒唐無稽という他ない(こういうSFは好き)が、補足しておくとサラマンカ大学は現存するスペイン最古の大学で、宗教改革後はヨーロッパにおけるカトリック神学の中心だったと言われる。ウィッテンベルク大学(多分マルチン・ルター大学ハレ=ウィッテンベルク)には、ルター先生に中継が繋がる。中継だから良いものの、スタジオだったら場外乱闘で番組の趣旨が変わっていただろう。

なお、蛇足ついでに付け加えるがマルティン・ルターは1483年生まれで、『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に提出したのは1517年。1492年時点では9歳である。……テレビ中継をしている時点でこんな時間の歪みは些細なものだけれど。
それと細かいネタとして、「気鋭のトマス神学研究家、われらがカトリック教会希望の星、ルター博士」も多分笑うポイントだと思う(ボケの解説)。詳しくないが、ルターとトマスの教説は対立している。らしい(厳密には共通する部分も多いが、歴史的に、というか政治的に対立させられたような記述もみかける)。重ねて言うと詳しくないので詳しい人はご教示ください↓


合成シナリオのパッケージを組み合わせてアントニオーニやゴダールの映画を作ってみようという「あなたも映画を作ってみませんか」。

とあるx広がりy、荒寥としているz。かの女kは遠ざかってゆくn

ここにx, y, z, k, nに代入するパッケージが用意されている、といった具合だ。

『聖書』やホメーロスの『オデュッセイア』、ダンテの『神曲』、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、プルーストの『失われた時を求めて』やカントの『実践理性批判』なんかまで茶化してレビューをした「涙ながらの却下ーー編集者への読書レポート」。ネット上で「Amazonの商品レビューみたい」と評している人がいたが、しっくりきた。

例えば聖書のレビューなんかは次のようになっている。

全編アクション、現代の読者が現実から逃避するために書物にもとめるすべて、セックス(それもたっぷり)、不倫、男色、殺人、近親相姦、戦争、虐殺、なんでもござれときてる。

まぁ……間違ってはないだろうけど怒られないのかこれ。でもエーコってイタリア人だから、イタリアでいいならいいんだな、と日本人としては思う。

ソドムとゴモラのエピソードが「ラブレー風」と形容している読者による前後関係があべこべになってる錯覚なんかも、Amazonレビューって感じだ。

ただこれだけは蛇足と知りつつ付け加えておこう。

プルーストの『失われた時を求めて』は長すぎるから文庫サイズのシリーズにしよう、とか、編集し直した方がいい、とレビューがつけられているが、日本では文庫化され、全一冊に編集し直された圧縮版のようなものとかも出版されている。売れただろうか。いや知らないけど。ただ「100分でわかる○○」とかそういうのは、フランスの結構かための「文庫クセジュ」にも『100語でわかるマルクス主義』とかがあるので、多分日本に限った話じゃないんだろうと思う(と思いつつカタログを見てみたら、同じ「100語でわかる」シリーズにも「ショアー」とか「戦争」とか「ランボー」、「法律」、「貨幣政策」、「聖書」、「天文学」、「古代エジプト」などキリがなかった。なお、現代は"Les 100 mots de ..." なので直訳するなら「○○の100語」だが、用語辞典みたいになっているので「100語でわかる〜」というタイトルが日本語訳の悪徳というわけではない)。

とまぁ一つ一つ書いていたらキリがないのはおわかりいただけると思う。


何が「好き」なのか?

さて、突拍子もない話だが「パロディ集」であるこの本の何が好きなのだろうか。

パロディということで、そもそもオリジナルではない。前提とされている作品がある。しかし内容は元のものと似ても似つかないのでエーコの創作物である。

この「パロディ」という手法に関して「好き」ということであれば、それはもうエーコの意図に対しての好みということになるだろうから、一般的に「この小説が好き」というストーリーや表現に対しての好みではなく、一歩引いたメタ的な好みということになる。

ただ「この小説が好き」、「この作者が好き」という時、「文体」が好みの対象となることもある。

小説をその小説家の作品たらしめている「同一性」とはこの「文体」によるところが大きい(もちろん、書誌情報などから画定することもあるだろうけれど)。

エーコのこの『文体練習』における「文体」はどこにあるだろうか。

ここでテクストに付加された「文体」はパロディ元の作者に帰するもので、エーコ自身の「文体」ではない。しかしそれでもエーコの『文体練習』が好きだとすれば、それは先に述べたようにそうしたパロディをするエーコの「しぐさ」が好きだということになる。そんな言葉があるかわからないが素直に受け取る文体とは別な階層、次元での「メタ文体」と言えるのかもしれない。言えないかもしれない。メタメタ言いたいだけのような感覚はある。多分ある階層内ではなく別な階層へ入ることで俯瞰して見る欲望みたいなものだと思う。脱線。

そもそも一般に言う「文体」という言葉はかなりふわっとしているので、何が「文体」なのか、と規定するには色々なものを含みすぎている。それでも私たちは「村上春樹風の」とか「星新一風の」とか言ったりする。使う言葉、語彙に集約されていったりすることもあるけれど、基本的にこの条件をクリアしたらこの文体になる、という規定的なものはない(文章の形式ではなく作者の個性という意味で)。

さらに面倒なことをいうと「パロディ」というのも厄介だ。

パロディがパロディとして成立するためには、元ネタが明確でなければならない。元ネタとの違いにおいて、読者はパロディを楽しむことができる。元ネタが読者に明瞭に意識されていなければ、『文体練習』は色々なスタイルで書かれたエーコという人の短編集、ということにしかならない。つまりパロディはことの始まりから、「オリジナル」であってはならず、みずからの向こう側に「オリジナル」が本来はなければならない。

しかしエーコの『文体練習』の場合どうだろう。

読者はパロディされているということだけわかるけれども、元ネタがわからなかったりして「パロディである」という事実しか知らない状況。「オリジナル」がある「らしい」ということしかわからない。ただスタートから基本的にはエーコの文体「ではない」と読者には与えられている。

パロディだから元ネタを知っていた方が楽しめる。

この本に関してこうした評が散見される。果たしてそうだろうか。もちろん元ネタを知っていての楽しみもあるだろうが、元ネタの「何を」知っていたら楽しめるのだろうか。

例えばプルーストの『失われた時を求めて』を普通に苦行としてではなく読書体験した人にとって、ここでパロディになっているものはなにか。話の筋は関係ない。

急角度で話を曲げていこう。端的にそれは「イメージ」だと言いたい。

プルーストは「一文が長くて話も長くて読むのが辛い」とか、聖書は「道徳的」なテクストである、とか、人類学は非西欧の「未開の」文化を記述しているとか、正確であるかどうかは二の次で、そのテクストの周りに形作られているイメージこそ、ここでパロディの対象になっている。

そしてこのイメージは「オリジナル」ではない、と急いで付け加えよう。

イメージなんだから物そのものじゃないのは当たり前なんじゃないのか。イメージをオリジナルの模倣とすると当たり前のようだが、それは現実はイデアの影、みたいなことを言っていることになる。現実の裏に真実の世界がある、なんて言い方をすればさすがにそれはおかしい、という人も多いと思う。

イメージimageは「像」と訳されることもあるように、抽象的なものではなく具体的なものを指し示すこともある。

人が何かを認識する時に、「像」を認識することは避けられない。ただこの「像=イメージ」は「形」のようにはハッキリとしていない。

ただイメージはその背後に何かを「予感」させる。その裏に確かな実体があるような気にさせる。気にはさせてくれるものの、それ自体を生で見せてくれることもしない。イメージには「オリジナルがある」というイメージがある、とでも言って事態をややこしくさせておこう。


まとめに入るために、「文体はイメージだ」と言ってみることにしたい。

文体は不定形でこの条件をクリアしたらこの文体、というものではない。テクストがまとっている雰囲気みたいなものだ。そしてこの文体はこの作者によるものだ、ということを読者に教えてくれる。

それがどう形成されるか、それはテクストが書かれることによってでしかない。テクストが書かれることによってでしかない、ということは、それがその作者そのものの手によるものでなくても原理的に可能なものだとも言える。全く同じ文章を同時に二人が書くことは排除できない。それでも読者にとって文体は現れる。

作者の署名、日付が大事なのだろうか?

作品をその作品たらしめているのもやはりテクストなので、「この作者による作品」という権威付けは、それもまたテクストの価値であっても、作品が表現する「意味」ではない。

つまり作品はテクストという形で表明されるために作者の手を離れて意味を持つのでなければならないが、そのテクストのもつ雰囲気によって作者へと送り返されてしまう。作品の背後にいる作者を「予感」させてくれる。でもそんな統一的な作者はいないかもしれない。それにその作者が書いたという事実が重要でないとすれば、その作者自身は作品にとっての「オリジナル」ではないことになる。確かに作者が書いているが作者が作品の全てを所有しているわけではない。その作品の意味は読者に開かれ委ねられ賭けられている。

こうした意味で、文体とは読者によって認識されたイメージだ、と言えるのではないかと思う。


と、書いてみたものの、何の話でしたっけ。

おしまい。(つづかない)


結局のところ、「好きな小説」についてではなく「好きな小説」という概念についてのおはなしというところで、おあとは別によろしくない。


※なお、改めて確認するとお題は「好きな小説」ではなく「あなたの大事な小説」だった模様。「文体」は自分にとって大事な概念なので、というあたりで。

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