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父親も育児に没頭する

昔、ウィニコットというイギリスの精神分析家は「原初の母性的没頭」ということを言いました。これは、母親というものは子どもの生後数週間、子どものニーズに完全に適応できる状態に入るということを言ったものです。ウィニコットによれば、これは母親になることに伴って生じるほとんど生得的なプログラムのようなもので、どんな母親でも子どもが生まれたら、しばらくの間は子どものニーズに完全に適応できる状態に入るのだということです。

そして、この状態は母親であるということを除けば病気に近いと言います。他人のニーズにそこまで完璧に、直感的に、瞬時に応じられる状態というのは、自分と他人は基本的に別個の存在であることを前提とする通常の現実生活から見れば、異常な状態だということです。ウィニコットによれば、母親は数週間の後に、自然とこの状態から回復してくると言います。

この考えが提案されたのは1950年代のことです。ウィニコットは小児科医でしたから、子どもの発達にとって親との関わりがいかに重要か、日々感じていたことでしょう。現在から見ると、子どもの発達にとって理解してくれる養育者の存在が決定的に重要であるという点で、重要な指摘をしていると言えます。一方、これが母親にだけ生得的に起こることであるとする点で、母性神話や育児を母親に押し付ける慣習を強化してしまうおそれがあるように思われます。また、ウィニコットとしては「大丈夫、みんな自然にそうなるんだよ」と言いたいのだと思いますが、やはり言われた側としては、「そこまで完璧に子どもに合わせられないよ」という気持ちにもなりそうです。

その後の乳幼児発達や親子関係の研究により、現在では、子どもは生まれたばかりの非常に早期から、養育者との間で相互作用するものであると言われるようになっています。親だけが完璧に合わせなければいけないわけではなく、互いにやりとりしながら、互いのよき塩梅を探っていくのです。

さて、前置きが長くなりましたが、生得的かどうかはともかく、父親にも、そのくらい育児に没頭する時期があるのではないか、というのが今回のエッセイのテーマです。

ある父親は、子どもが生まれてから、子どもを保育室に預けるようになるまでの数カ月間のことを次のように振り返りました。妻と子どもは昼も夜もないような生活に入りますから、自分の生活リズムもそれに応じて右往左往します。帰宅して、煮詰まった妻と子どもの間を解きほぐし、妻に寝てもらってから子どもを寝かしつけ、午前2時や3時から翌日分の妻と自分の食事を作り、朝ごはんなのか前日の夜ごはんなのかよくわからない食事を取って、1時間だけ睡眠を取って出勤する、といったことは週にしばしばあったそうです。

しかし不思議なことに、その頃、職場で眠気を感じることはほとんどなく、仕事においてもむしろ大変クリエイティブに考えることができていたというのです。また、そのクリエティビティは、言葉が発達していない、いや、身振り手振りすら発達していない子どもの状態や心情を直観的に理解する上でも役に立ったということです。あるいは、自分や妻が過去に親との間で被った体験が、生まれてきた自分の子どもとの関係に悪影響を与えないよう、内省を続けるという点でも、役に立ったといいます。

ここで、子どもの「心情」というのは些か微妙な表現です。生まれたばかりの赤ちゃんには、一般的な意味で「心」と呼べるような体験はまだ発達していないと思われるからです。しかしながら、赤ちゃんから幼児へと次第に「心」が発達していく過程において、親の側が赤ちゃんにも「心」があるものと想定して、想像的に関わっていくこと、声をかけ、笑顔を向け、遊び、あやしていくことが、後に「心」と呼べるような体験の発達を促進していくというところがあるようです。その意味では、親の心情として、赤ちゃんの「心情」と呼んで関わっていくことは、よく理解できるように思われます。

さて、この父親は、子どもが大きくなった今、同じことをしろと言われてもたぶん無理だろうと言います。今では、全くもって安定的な生活リズムと睡眠時間を確保できているにも関わらず、子どもを寝かせた後に本を読むことすらままならないとのことです。

このような話を聞きますと、父親にも「母性的没頭」のような一時期があるのではないかと考えてみたくなります。すなわち、赤ちゃんの発達にとって非常に重要なある時期に、きわめてセンシティブな感受性と、赤ちゃんを育てていく環境を守るためにリミッターが一時的に外れたようなエネルギーとを発揮するような、育児に没頭した状態です。しかも、仕事においてもその感受性とエネルギーが活かされていたということを考えますと、ウィニコットが言うように、状況が違えば病的であるというほどでもないのかもしれません。だとすれば、これはなんと興味深く幸せな一時期でしょう。仕事においても家庭においても、人生でこれ以上ないほど感受性豊かに物事に取り組むことができるわけですから。

この父親は、子どもが生まれる前から分析セラピーを受けていましたので、それも彼の感受性と想像力が発揮された要因の一つでしょう。しかしながら、彼は子どもが生まれた後も数年間分析セラピーを続けましたが、単位時間あたりの思考と感情の密度において、子どもの生後数ヶ月を超える時期はなかなかないと振り返っていましたので、やはりその時期特有のものというのもあるのかもしれません。

このように考えてまいりますと、日本の父親の多くが育児を妻や実家に任せたまま、育児休暇を取ることもできず、仕事に忙殺されてしまっているのはなんともったいないことかと思わざるを得ません。もちろん、ウィニコットが言うような、子どもの出生と同時に発生する生得的メカニズムに近いようなものならば、仕事においてはクリエイティビティが発揮されていることもあるのかもしれません。しかしながら、やはり赤ちゃんと直に接して、育児にコミットすることが、このような状態のトリガーになっているような気がいたします。あるいは、生得的メカニズムに近いようなものであったとしても、それを仕事にだけ振り向けているのはもったいないように思われます。自分たちで作っていく新しい家庭を、自分たちらしい幸せな居場所としていくために、この感受性と想像力を使わない手はないでしょう。

このような意味で、日本の父親たちは、まだ親になることの喜びを十分に知らないのではないかと思われます。

※ウィニコットの「母性的没頭」という概念は、論文をよく読むと、自閉症理解のための概念でもあったことが読み取れます。つまり、男性的な傾向が強く、「母性的没頭」状態に入ることに抵抗が強い母親の子どもは、カナーが記述したような自閉的な子どもになる、ということを示唆しているところがあるのです。男性的な傾向が強い、というのは、自閉症の子どもの親は知能が高く、専門職が多いという、当時は他のところでもしばしば指摘されていた観察のことを示唆しているのだと思われます。
 現在から見れば、本文で触れた通り、赤ちゃんはごく早期から親と相互作用しますので、自閉的な赤ちゃんの場合、その相互作用が微弱にしか起こらないために、親の方が疲弊して抑鬱的になってしまうというプロセスが想定されます。「母性的没頭」に入れないから子どもが自閉症になるのではなく、自閉症の障害特性により早期の親子の相互作用がうまくいかないので、親が子どもと関わる意志を持ち続けることが難儀になるということです。
 ウィニコットは類まれな臨床センスを持った小児科医でもありましたから、実際に自閉的な子どもがウィニコットのところに来て反応が改善したというようなことも多くあったのかもしれません。そうした経験から、自閉的な問題は生得的なものというよりは、親子ともども憶えていないくらい早期の養育になんらかの問題があったのではないかという考えも浮かんだのでしょうか。
 ウィニコットの臨床センスは疑いようもありませんが、理論や概念は見直される必要があります。「原初の母性的没頭」という概念は、自閉症母原病説の含みがあるという点でも、アップデートが必要と言えるでしょう。

(元記事投稿日2023年9月5日)

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