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夫婦関係と親子関係の仕分け
夫婦で協力して子育てをしていると、日常のさばき方というのがだんだんわかってきて、なんとなく互いの役割が決まってきたりします。子どもをお風呂にいれる係、ごはんを作る係、洗濯する係、買い物に行く係などなど・・。それぞれが得意なことを率先してやっていたり、互いの仕事の都合で自然とできることが決まってきたり、とにもかくにも、忙しい日常を乗り切るためにはオペレーションがスムーズになるのはわるいことではありません。
しかしながら、あまり互いの役割が固定化されてくると、相手がやっていることが当たり前になってきて、自分ばかり大変な思いをしているという気持ちになってきたりします。洗濯担当の人はどんどん溜まっていく洗濯物を見て、「私は家政婦じゃない!」と思うかもしれませんし、買い物担当の人は次の買い物の予定などお構いなしに好き勝手減っていく冷蔵庫の中身を見て、「もうちょっと計画的に使ってよ!」と思うかもしれません。
あるいは、協力して子育てをするようなご夫婦は、子どもが好きという点で一致しているでしょうから、相手が子どもとやっていることのほうが楽しそうに見えてきたりします。お風呂担当の人は、子どもが小さければ溺れないように神経を使い、子どもがある程度大きくなればおフザケが過ぎないように頭や身体を洗わせていくのに苦労するので、「遊びに付き合ってるだけなんて楽でいいよね」という気持ちになるかもしれません。遊び担当の人は、好きな遊びは何度でも繰り返そうとする子どもの相手をするのに疲弊して、「お風呂は時間が決まってるから楽しいうちに終わりにできていいよね」という気持ちになるかもしれません。
こういうことは避けようと思って避けられるものでもないので、こういうものなのだと思っている方がいいと思いますが、こういうときに何が起きているのか知っておくことは大切でしょう。文面から明らかなのは、相手がやっていることの大変さを見過ごしてしまっているということなので、それを互いに理解することはもちろん大事でしょう。
ただ、今回のエッセイで注目したいのは、こういうときに背景で動いている情動です。こういうとき、「自分ばかり大変な思いをしている」という気持ちの背景にあるのは、「自分は大事にされていない」という感情だったりします。大事にされていない・・誰から?パートナーからです(そうなのではないかと心配になるということであって、本当に大事にされていないわけではないでしょうが)。
協力して子育てをしているご夫婦ですから、子どもが大事、子どもの心身の健全な発達が優先、という価値観は共有しているでしょう。すると、どうしても子どものことを第一に考えるようになります。次に考えるのが、子どもの環境であるところの家庭を心地よく維持すべく、家事のことを考える。そして、それらを支えている自分たちは価値観を共有しているコンビだから、きっと阿吽の呼吸でうまくいくだろうと信じている。親子関係はそれでいいのです。子どもにとっても、両親がともに自分のことを大事にしてくれて、自分のことを第一に考えてくれるのは生まれてきてよかったと思えるための基盤となるでしょう。
しかしながら、子どもが大きくなるまで夫婦関係を棚上げにしておけるわけではありません。親子関係と同時に夫婦関係も進行中なのです。ですから、子ども優先、家事優先、ばかりになっていくと、夫婦関係の方が満たされません。もちろん、相手が子どものことを第一に考え、家事もしっかりやってくれることに対して異議を唱えるつもりはありません。それは全然間違っていないし、自分だってそうしています。だけど、あまりそればかりになっていくと、やはりちょっと寂しい。価値観を共有し、子育てという大事業に一緒に取り組めるくらい、自分にとって唯一無二であるこのパートナーは、今でも自分のことを大切に想い、愛してくれているだろうか・・。
子どもの優先順位を下げるつもりはありません。それは間違いない。相手もそうするだろう。だけど、自分は大事にされているだろうか。愛されているだろうか。パートナーが子どもに向けている愛情と同じくらいの愛情で、今でもパートナーは自分のことを見てくれているだろうか。もちろん、自分も幼児のようになって、パートナーからの愛情を巡って自分の子どもと争うようなことをするつもりはありません。でも、だからといって、子どもがいる以上、親である自分は大事にされたいなんて思っちゃいけないのだろうか・・。
あるいは、パートナーからの愛情を期待できないなら、子どもを大事にしている見返りを子どもに求めてしまおうか・・。もう子どものことをパートナーにして、疑似的な夫婦に・・。いやいや、そんな子どもを慰みものにするようなこと許されるわけがない。でもそうでもしないと満たされない気持ちは、もしかすると、ちょいちょい漏れ出ているかもしれない・・。
ならばやはり、この不満をパートナーに知らせてやらねば!子どもを味方に引き入れて、パートナーの悪口を子どもと言い合って・・、いやそれ、子どもを慰みものにしてるのとあんまり変わんなくない!?でもじゃあ、誰が自分の愚痴を聞いてくれるというのか!
自分だって大事にされたい!だけど、子どもがいるのにそんなことを思うのは、子どもじみていないだろうか・・。
などなど。文字にすれば演技じみて聞こえるかもしれませんが、これらはどれも、夫婦関係と親子関係の仕分けがうまくいかないときには意外と心を悩ますものです。子どもが受けている愛情が羨ましくて、パートナーの子どもになりたいと思うこと。パートナーの気持ちが離れてしまったと感じて、子どもをパートナーにしようと思うこと。子どもとツルんでパートナーを仮想敵に仕立て上げること。どれも、夫婦関係と親子関係は次元が違うのであって、それぞれの関係が育まれ、満たされなければならない、という原則を忘れてしまっています。子どもは親子関係において愛されることを必要としていますし、同時に親はそれぞれ夫婦関係において愛されることを必要としています。愛が交わされる関係の次元が異なるのであって、どちらにおいても、その関係性にふさわしい情動でもって愛されたいと思うものでしょう。
さて、このように夫婦関係と親子関係が同時進行で展開していくのが家族関係の難しいところではありますが、世代の継承ということを考えると、これは意義深いことでもあるように思います。というのは、もし物事が比較的首尾よく進むなら、子どもにとって、自分と親との親子関係というのは親同士の夫婦関係に支えられているのだということを、わざわざ言語化するほどでもないごく身近な日常として経験してくるわけです。
子どもはいずれ大きくなると性の問題と向き合います。思春期に入った彼らにとって、性愛にまつわる恥ずかしさや強烈なインパクトと、親の元で営んできた平和な家族生活というのは、最も対極にあるものと感じられるでしょう。ここで、いずれ彼らが性愛を自家薬籠中の物としていく過程で、夫婦関係と親子関係が仕分けられた上で併存していたという子どもの頃の経験のベースは、性愛と家族生活は地続きであるということを納得するのに大いに寄与してくれることでしょう。
(元記事投稿日2024年11月29日)