映画に出てくるあのシーン〜分析セッションの設定
今回は分析セッションの特徴的な設定の意味についてお話したいと思います。精神分析のセッションは、クライエント(精神分析では「被分析者」と言ったりします)がカウチに横たわり、セラピスト(精神分析では「分析家」とか「分析者」と言ったりします)はクライエントの後ろに座ります。つまり、クライエントからセラピストは見えませんし、セラピストからもクライエントの表情や細かい仕草などは見えません。これが昔から変わらない分析セッションの設定です。精神分析以外ではほとんどお目にかからない、めずらしい設定です。しかし、かなり特徴的で、ある意味、映えるので、欧米の映画などで見たことがある方も多いでしょう。
ではなぜ、このような他では見ないような設定にするのでしょうか。カウチ設定の意味については、多くの論文や著書が出ているので、公式見解はそちらにおまかせするとして、当ブログでは、私の個人分析の経験や臨床経験からの実感を描いてみようと思います。
まず、この設定の大きな特質は、互いに相手を目の前にせずに話をするということです。「相手の目を見て話しましょう」というのは訓示のようによく言われることで、互いに相手を見ずに話をするなんて失礼じゃないかと思われるでしょうか。そのとおりです。この「失礼じゃないか」というところに、この設定を導入する意義が暗示されています。
どういうことかというと、互いに相手を目の前にして会話をする場合、日常会話における対人関係上の気遣いが自然と働いてしまいます。これは日常会話においては悪いことではありません。互いに気持ちよく、楽しい時間をすごすことが日常会話の目的だからです。そのためには、感情を露わにすることはどちらかといえば避けられますし、相手にインパクトを与えるような話題は露骨に話されることはありません。プライベートな度合いの強い内容も、よほど親密な間柄でない限り避けられるでしょう。日常会話はこれでいいのです。日常会話で自分や相手の変化や成長が目指されていることはほとんどないでしょうから。
しかし、分析セラピーの目的は、「自分を知ることで、変化・成長すること」です。内省を通じて自分が変わることが目指されているのです。そのときに、相手に失礼にならないかと気にし、相手の表情や仕草によって次に言うことや、思いついたことをどのように言うか、ということを調整していては、いちいち内省が中断してしまいます。
実際、カウチ設定の方が、一見すると無関係な思いつきを口にしてみたり、相手が目の前にいる状況では通常抑制されるような感情を表現しやすかったりするようです。このように、内省を促し、それまで触れられることのなかった思考や情動に触れやすくなるということが、カウチ設定の意義の一つです。
また、椅子ではなくカウチに横たわることで、出てくる考えや感情が、社交上のよそ行きのものから、よりプライベートで自分の内面に近いものになるという面もあるでしょう。
とはいえ、内省するだけなら一人でもできそうです。精神分析の本を読んで、なるほどと思って一人沈思黙考するということではいけないのでしょうか。それができる人もいますが、案外、「一人で沈思黙考」は、内省のつもりが「一人反省会」になってしまいがちなようです。つまり、堂々巡りの思考に陥って、結局いつもの変わらぬ自分に戻ってきてしまうわけです。こうなると、さっき思いついた思考や出てきた情動も、意味があることなのか、単にいつもの繰り返しなのか、判断がつかなくなってしまいます。
ここで必要とされているのは「対話の相手」です。ふだんは触れられない思考や情動に触れることができたときに、その意味についてコメントし、対話をもちかけてくれる他者としてのセラピストです。ここに、カウチの後ろにセラピストが座っている意義があります。
ふだんはほとんど触れられることのないプライベートな自分への内省を促すカウチと、そうして促された内省に対話をもちかけてくれる相手はすぐそばにいるということ。この、「内省と対話の両立」が、精神分析に特徴的なカウチ設定の眼目の一つであると、私は思います。
なお、私がこのような考えに辿り着いたのは、私自身の個人分析が、週1回の頻度で、上半身を起こすようなカウチ設定で行われていたことが影響しているものと思われます。これに対して、もっと高頻度でセッションがもたれる場合もあります。週2回や3回の精神分析的心理療法や、週4回以上で行われる精神分析などです。こういう場合には、カウチも上半身まで横たえて、ほぼ寝るような姿勢になるタイプのものが使われたりします。
このように、高頻度のセッションで、なおかつ寝るような姿勢になるカウチ設定では、心の乳幼児的な部分が賦活されるようです(私には経験的基盤がないので、伝聞という形でしかお伝えできませんが・・)。すると、セラピストや分析家への依存が強まり、セラピストや分析家との関係自体が治療の媒体となってくるようです。このように、同じカウチ設定でも、セッションの頻度やカウチのタイプによって、その意義や強調点は変わってくるものと思われます。
心の乳幼児的な部分を賦活する、という今のお話と比較すると、私が強調する「内省と対話の両立」という意義は、心のおとなの部分との関わりを主軸にしていると言えるかもしれません。実際、週1回の頻度ですと、分析セッションで学んだことを実生活において活かしたり、実践してみたりすることは、かなりの部分クライエント自身に委ねられることになります。週4回や5回のセッションで、ほぼ毎日、分析家と話し合えるのとは対照的と言えるでしょう。また、上半身を起こしたカウチ設定というのも、ふだん社会生活を営んでいるおとなの部分と連続性のある心の状態で話をすることになります。これらのことが、私が「内省と対話の両立」という、わりとおとなな意義を強調するようになった背景なのだと思われます。
なお、週1回のセッション頻度でカウチを用いることに対しては、専門的には異論もあります。高頻度だからカウチでも情動的な接触が生まれるのであって、週1回でカウチにしてしまうと、あまりにもセラピストとクライエントの心理的距離が開いてしまうというわけです。これは、「セッション中にあまりしゃべらない」という精神分析的セラピストの一般的イメージに照らして考えれば、私も同感です。
ただし、私はどちらかといえば「よくしゃべるセラピスト」なので、週1回でもカウチ設定がそのポテンシャルを発揮することを実感しています。ここには、週1回のカウチ設定で分析セラピーを駆動させていく技法論的提案が暗示されていますが、それはいずれもっと学術的にまとまった形で発表することにいたしましょう。
ところで、画像からもおわかりのとおり、当オフィスのカウチも上半身を起こして座るようなタイプです。これは意図してそうしたわけではなく、オフィスをデザインしてくださった家具屋さんがオフィスの広さを考えて見立ててくださったものなのですが。しかし結果的には、「内省と対話の両立」を強調する私の分析セラピー哲学に合致したものになったということになるでしょう。なんというか、こういうのも無意識的選択なのでしょうね。
(元記事公開日2022年12月8日)