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懺悔の夢、希望の夢

精神分析では夢を話し合いの素材として重視します。夢というのは将来の夢のことではなく、夜に見る夢のことです。夜に見る夢に何らかの意味があるのか、というのは議論の分かれるところです。それは記憶の処理過程におけるランダムな視覚像であって、そのものに意味はないということも言われます。それはそのとおりかもしれませんが、そのことと、精神分析において夢を重視するということとは、あまり矛盾しません。

というのは、精神分析で話題にする夢というのは、正確に言うと、夜見ている夢そのものではないからです。当然ですが、夢を見ている最中に分析セッションを持つことはできません。また、朝起きたときに枕元に分析家やセラピストがいるわけでもありません。精神分析における「夢」というのは、あくまでも、クライエントが、分析セッションまで「こんな夢を見た」という形で憶えているおはなしなのです。ランダムな視覚像を、起きた後に記憶にとどめ、荒唐無稽ながらも「こんな夢だった」と筋を付けて、「おはなし」にするわけです。さらに分析セッションまでの時間にどんな夢だったかの記憶が変わることもあります。このように、精神分析における「夢」というのは、実際には夢そのものに対して、起床後の様々な心理的な処理が施された、その人ならでは作品ということになります。

しかも、おはなしを作っている本人は、荒唐無稽でランダムな視覚像を結びつけるばかりですから、どういうおはなしにしようかという作為をあまり反映させることができません。そのようなわけで、夢を素材にして話し合うと、その人ならでは心理過程が意識的な作為を超えて現れるので、いろいろと興味深い発見がある、というわけです。

夢をどのような視点で扱うかというと、古くは抑圧された願望の充足や、それが歪曲されたものだと解釈されたり、時代が下ると、治療者との間で展開している関係性が表れていると解釈されたりしてきました。どのような視点を取るのがインパクトがあるかというのは、そのときどきで違うのでしょう。

今回、私が取り上げたいと思うのは、「懺悔の夢」と「希望の夢」というものです。これは私がそう呼んでいるだけで、専門用語として確立しているわけではありません。ただ、分析セラピーにおいて、重要な局面でそのような夢に出会うことをこれまでに何度か経験してきたので、書いてみようと思ったということです。

懺悔の夢というのは、自分がなしている罪を告白するような夢です。多くの場合、人は自分が実はやらかしてしまっていることを認めるのは困難です。それは、露見したら赦されるはずがないと思っているという理由もあるでしょう。しかしながら、懺悔の夢においては、夢を見た人が最初からそこに自分のなした罪が現れていると自覚していることはほとんどありません。セラピストとの分析ワークの中で次第にそのような意味があると見えてくるのです。結果として、見えてきたときにはすでにセラピストと一緒にそれを見ていたということになります。露見したら最後と怖れていたら、すでに誰かと一緒に見ていたということになるわけで、恥ずかしさはあるものの、絶対に赦されないという恐怖は乗り越えられているわけです(もちろん、これはかなり図式化した表現で、実際の分析セラピーにおいては紆余曲折ありますけれども・・)

すでにエッセイ等々で主張しているとおり、まずは自分が何をされていたのかを自覚することが重要です。自分がどのような環境で生きてきたのか、相手の問題はなんだったのかを認識することなしに、自分の罪ばかり考えていても、内省というよりは自己卑下が深まるばかりです。とはいえ、それが自覚されてきたならば、その影響で自分が現在、どのような生き方になってしまっているのか、と振り返るフェーズに移行していきます。

それは必ずしも、やられていたことを自分もやってしまっていた、といういわゆる反復や世代間伝達に限りません。反復しないために慎重になりすぎた結果、誰かと真剣に関わることができなくなっていたということもあるでしょう。目の前の敵を避けるために後退りしたら、踵で誰かの足を踏んでいたということもあるかもしれません。けっこう多く見られるのは、もう怖いことが起こらないように、自分の生き生きとしたところを亡き者にしてしまっていたということだったりします。

こういったことに対する気づきを得て、学びにつなげていく上で、懺悔の夢は大いに私たちの導きになってくれることがあります。

さて次は希望の夢について述べましょう。これは懺悔の夢のあと、自分がやっていることに対する自覚が広がっていったときに、自分がこれからどう生きようとしているのかを示すような夢です。治療目標というのは、契約の段階でもある程度共有するわけですが、この希望の夢というのは、ある意味では、分析ワークが進展していったところであらためて明確化された治療目標とも言えるでしょう。

自分がこれからどう生きていきたいか、ということは、見えてきたとしても、実際に行動に移せるかどうかということになると、様々な現実的な事情があってすぐには難しい場合がほとんどでしょう。しかし、重要なのは、それをいずれ実現していけるだけの内的な準備ができたかどうかです。その内的準備ができてきたことを示す一つの象徴として、この希望の夢が見られることがあるように思われます。

夢というのは、きわめてプライベートなものなので、なかなか実例をエッセイでお示しすることが難しいのですが、分析セラピーが進展していくと、このようなことを体験することになるかもしれないという一つの参考として、ご興味をもっていただけたら幸いに存じます。

(元記事投稿日2023年10月26日)

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