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精神分析における「成長」とは

ウェブサイトのトップページのコピー「自分を知り、成長をめざす」を、この度、「自分を知り、自分になる〜腹オチする幸せに向けて」に変えました。今回は、その心について語ってみたいと思います。

成長を目指さなくなったとか、成長は起こらないことを悟った、というわけではありません。ただ、世間一般で言う「成長」と精神分析で言う「成長」とは、少し違うかもしれないと思ったのです。それで、分析セラピーで行っていることをもう少し正確に、というか等身大に、というか、私の感覚に近く表現できないかと試みた結果です。

精神分析で言う「成長」というのは、自分自身の欲求、感情、不安、それらにまつわる空想や願望などなどといったものに対してオープンになることです。自分を構成する様々に対する責任を引き受けることです。ここで言う「責任」は以前セラピストの国語辞典で取り上げた意味での責任です。つまりresponsibilityという意味での責任。自分の考えや感情を体験し、そこでどうするかを自分で決められるということです。

納得した上で一つ一つの選択をできるようになり、自分に対する後悔が少なくなります。自分にできないことを課すことも少なくなり、自分の力を必要以上に貶めることも少なくなります。一言で言えば、自分がとても自分らしい人間になるのです。これが、「自分を知り、自分になる」ということです。

そのような「成長」の結果として、意義深い人間関係を結べるようになったり、仕事において十全に実力を発揮できるようになったり、プライベートを存分に楽しむことができるようになったり、といった変化ももちろんあります。これらの副産物は、世間一般でいう「成長」に近づいてくるかもしれません。

ただ、それが起こってくる過程は、ストイックに自分を痛めつけて苦手を克服した!といったような、いわゆる体育会系のノリとは質を異にするものです。どちらかといえば、心の中の納戸に押し込んでいた喜怒哀楽、悲喜こもごもが日の目を見て、そして赦され、自分がまだ生きて動いていることを確かめるようなことです。

その途中で、痛みと向き合うこと、自分の罪と向き合うこともあります。しかし、それに対して、ギュッと目を瞑って我慢するとか、歯を食いしばって裁きを待つ、ということではないのです。まだそれは終わっておらず、生きて動いていく中で、できるだけのことをしていくのだと感得することなのです。

その意味では、後悔することはその後ももちろんあるのですが、そこで自分を断罪したり、卑下したりは、あまりしません。それよりは、赦されながら、次はどうしようかと未来に希望を託すのです。

ところで、ここまで「赦される」と受動形で書いてきました。自分のことなのだから、自分で自分を「赦す」のではないのでしょうか。ここが精神分析のミソなのですが、自分で自分を赦すだけだと、どこか独り善がりの後ろめたさが残ります。自分の中の他者なるもの、あるいは、親なるものに「赦されて」こそ、自己存在が意義深いものとして、生きて動く場を与えられていると感得するのです。

この、自分の中で他者なるものに開かれるということが、自分中心でありながら自己満足で終わらないことの、人々の中で生きながら自分を二の次にしないことの、勘所なのです。もしかすると、これが主体的に生きると俗に言われていることの実質なのかもしれないと思ったりもします。

自分の中で赦され、他者に開かれると、その他者なるものは対話の相手となります。与えられた、生きて動ける場において、自分は何をなす人間なのかと考えるとき、その対話の相手がいることは大いに励みとなるでしょう。自己満足にすぎないという内的な誹りを受けることなく、自分が生きることの意味を考えるために。

それは、ちょっと大袈裟な言い方をすれば、「使命感」という感情に近いかもしれません。これをもう少し日常的な言い方にすると、「腹落ちする幸せ」ということです。単に刹那的に楽しい、興奮する、ではなく、自分にとってそれが幸せであることの意味、そしてまだまだ生きていく意味があるという未来への期待といったものに、腹の底で支えられた納得のいく幸せということ。

トップページの言葉にはそのような思いが背景にあるというわけです。

(元記事投稿日2023年7月27日)

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