未来を見据えた家族相談
今回は業績紹介の第2弾です。このシリーズは、多くの方にとって学術的な文献にアクセスするのは難しいだろうということで、ウェブサイトの「業績紹介」に記載してある私の著作物や学会発表のエッセンスを解説したり、現在の視点から読み直したりしようというものです。今回取り上げるのは、2018年に精神分析的心理療法フォーラムで発表した「変化をもたらす家族相談に向けて」と題する研究発表です。
心理臨床家が患者やクライエントのご家族とお会いする機会はかなり多くあります。不登校の子どものことで親御さんがスクールカウンセラーに相談したり、子どもの卒後の進路のことで親御さんが学生相談室を訪れたりするのはよくあることでしょう。また、家族関係や夫婦関係、子育てのことで相談室を訪れるクライエントもいらっしゃいます。
このような、家族に生じている何らかの問題で相談に訪れた方に対して、心理臨床家が何らかの形で専門的な関わりを持つことを、広く家族相談と言ってみたいと思います。すると、この家族相談においては、しばしば相談に訪れた方(ひとまず、クライエントと呼びましょう)への「支持的」関わりが行われます。家族に生じている問題がクライエントのストレスにもなっているわけですから、これ自体は当然のことと言えましょう。
しかしながら、「支持」が求められていると同時に、クライエントは何らかの形で問題が生じている現状を変えたいとも思っていることが多いでしょう。支持と変化へ向けたワークが両立して行われることが理想的です。なにやら当たり前のことを述べているようですが、意外にこれが難しい。
試みに、このような架空のケースを想像してみましょう。子どもに生じた何らかの問題で、母親が心理臨床家のもとへ相談に訪れたとします。心理臨床家は苦労して子どもに関わってきた母親を情緒的にサポートしようとします。母親も情緒的なサポートを必要としていたので、家族相談を続けることにします。次第に、父親が子どもの問題に理解がないことがわかってきました。また、母親と父親の夫婦関係も悪化していることがわかってきました。どうやら子どもに生じている問題は、この夫婦関係の悪化に対する心理的な反応として理解できる面がありそうだと見えてきました。母親は一人で子どもの問題に対応しており、父親は話し相手にはなりませんから、心理臨床家のところで話を聴いてもらって情緒的にサポートを得ることをとても頼りにするようになっています。
さて、このまま家族相談を継続するとして、それが母親のニーズに合っていることは確実です。母親はサポートを求めており、それを得ることができているからです。しかしながら、母親が心理臨床家のもとで情緒的なサポートを得て元気を回復するというサイクルを繰り返していくと、父親の無理解や、父親が話し相手にならないという家族の問題に、「我慢して耐え続ける力」を身に着けていくことになるかもしれません。「先生が話を聴いてくれるから頑張れる!」というわけです。
ところで、子どもに生じている問題は両親の夫婦関係の悪化に反応している面がありそうでしたから、母親が父親の無理解に耐え続けているだけでは、子どもの問題は解決しないことが予想されます。すると、夫婦関係の改善の可能性があるかどうか母親と話し合うなり、父親にもセッションに来てもらって子どもの問題を考える両親の協力体制を支援するなり、考える必要が出てきます。しかしながら、母親はすでに父親からは得られない情緒的サポートを心理臨床家から得ているわけですから、今更すでに愛想を尽かしている父親との関係再構築などあまり考えたくないかもしれません。
また、父親のポテンシャルからして夫婦関係の改善や、父親が子どもに関心を持つことは望めそうもないという場合もあるでしょう。すると、父親が子どもや家族関係に与える悪影響をどのように排除したり、緩和したり、抑えたりすることができるか考える必要が出てきます。それはもしかすると、母親が子どもの問題に「対応」したり、父親の無理解に「我慢して耐える」だけではなく、母親がイニシアティブを執って父親の影響力を最小限に留めるよう行動を起こすような方向性になるかもしれません。
そうなると、母親にとっては、夫婦関係や家族関係を見直すということに留まらず、自分がこれまでよしとしてきた生き方を見直すことも含む可能性が出てきます。つまり、自己犠牲を払って献身的に尽くしていれば、それが愛情を示すことになるのだという信念を考え直すことになるかもしれないのです。これはもう、情緒的サポートとは必ずしも簡単には統合できない、痛みを伴う内的ワークへと足を踏み入れることになるかもしれません。もちろん、それは母親にとって痛みを伴うだけでなく、これまで生きていなかった自分に出会い、視界が開けていくような経験になるかもしれないものではあるにしても・・
さて、架空のケースがこのあとどのように展開していくにしても、家族相談を引き受けている心理臨床家に求められることがあります。それは、その家族の未来を思い描くことです。母親、父親、子ども、それぞれのポテンシャルを見究めながら、この家族がどうなっていくと、今よりも幸せになれるのか、今よりも不幸を緩和することができるのか、その形を夢見ることです。でないと、情緒的サポート以外の関わりや介入をしていくための思い切りが出てこないからです。
夫婦関係の改善を模索するにしても、クライエントが行動を起こすにしても、それがどのような未来に向けての一歩なのか、心理臨床家が思い描けていないと、心理臨床家の方が、「これはマズイ方向に向かっているのではないか」と不安になってしまいます。すると、せっかくクライエントの方で湧いた勇気が挫かれてしまうこともありえます。
そのときに、心理臨床家が暗黙のうちに持っている「家族はこうあるべき」「こんな家族はよくない」といった自身の価値観を自覚していることが大切です。個人として何らかの価値観を持っていることは問題ありませんが、それが自覚されていないと、クライエントが未来に向けて一歩踏み出そうとしているときに、知らないうちにその足を引っ張ってしまいます。
たとえば、さきほどの架空のケースで、父親のポテンシャルが期待できず、かつ子どもや母親への悪影響も大きいということになったとして、母親が離婚を考えだしたときに、「やはり子どもにとっては両親がそろっていたほうが・・」といった価値観が、心理臨床家の中で無自覚のうちに頭をもたげてくると、「もう少し慎重に考えましょう」などとクライエントにポロッと言ったりするかもしれません。
もちろん、離婚という決断は慎重に考えることが大切です。しかし、この「慎重に」がクライエントの家族状況を深く読み込んだ上で現実的に考えるべき要素が残っていることを具体的に提示できるが故に出てきているものなのか、それとも心理臨床家自身の価値観として、「離婚はよくない」という考えを暗に伝えるような感じで出てきているのかは、それこそ「慎重に」見究めなくてはならないでしょう。
なお、ここで例に挙げている臨床的な判断というのは、両親の離婚は子どものメンタルヘルスのリスク要因であるという統計データとは別次元の問題です。臨床においては、離婚することのリスクと、現存する要因が継続することのリスク、現存する要因が別の方法で変化する可能性などを吟味して、子どもや家族にとって、できるだけ悪影響を少なくする道筋を模索することが専門的判断というものでしょう。両親が離れることによって、両親双方が、子どもに対してより適切に、あるいはより悪影響の少ない形で関わることができるようになったり、子どもの「らしさ」がより発揮されるようになったりするケースは、場合によっては存在するように思われます。
ただし、見切り発車ではいけません。繰り返しますように、どのような判断・決断をするにせよ、それがもたらす未来像を心理臨床家の側が具体的に、「この家族ならできる」という生き生きとしたイメージとして思い描けていることが大切です。結果的にその通りにはならないことはあるでしょうが、常に未来を見据えてともに考えていくという姿勢が、納得の上で選択するというクライエントとその家族の主体を支えていくものと思われます。(「結果的にその通りにはならないことはある」とはいうものの、あまりにもクライエントやその家族にとって期待外れの結果となるならば、やはり心理臨床家が未来像を具体的に思い描けていなかったということになるでしょう・・このあたりは、訓練によって想像力を磨いていくことですね)
さて、ここまでお示ししてきたように、家族相談において情緒的サポートを提供するだけでなく、現存する問題に何らかの変化をもたらすためには、現在起きていることや、これから起きようとしていることが、どのような未来につながっていくものなのか、イメージできることが肝要です。
精神分析は個人の内面の変化や成長を志向しているものではあるのですが、その個人の心を家族関係のように捉える視点を持っています。つまり、心の中の「親的」な部分、「子ども的」な部分、「赤ちゃん的」な部分であるとか、心の中で「きょうだい」のようなつながりはどうなっているか、「カップル」のようなつながりはどうなっているか、などといった見方をするわけです。すると、このような見方は家族相談においては、その家族の未来像を思い描く上で豊かなイメージ喚起力を持ちます。
また、家族関係のダイナミクスを読み解く上でも、多層的な見方ができます。つまり、その家族において「親的」役割をやっているのは誰なのか、子どもは「子どもらしく」居られているか、実際に赤ちゃんがいるかどうかとは別に誰かの「赤ちゃん的」ニーズが満たされないまま幽霊のように彷徨っていないか・・・。そのようにして現在の家族関係の実質が見て取れたとして、誰がどのようなポジションに収まっていくことが、その家族にとって収まりがいいのか・・・。などというように考えていくわけです。
さらには、家族相談の過程の中では、先程の架空のケースでも少し触れましたように、心理臨床家が一時的にその家族の中で見失われていた何らかのポジションを引き受けることを通して、家族が自分たちの見るべきものを発見していくということも起こるでしょう。たとえば、クライエント(先程の例では母親)の中の「子ども的」部分に、心理臨床家が「親的」に応えることを通して、クライエントやその家族が、「親的」に責任を引き受ける人が誰もいないのが自分たちの問題だと合点していったり・・といったこと。
こんなふうにして、だんだんと自分たち家族の収まりどころが見えてきたならブラボーです。ここにおいて、心理臨床家が思い描いてきた未来像は、家族が自分たちで描いていくものへとバトンタッチされていくわけです。
(元記事投稿日2023年3月11日)
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