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セラピストの国語辞典10〜「沼」

最近、何かに熱中したり、ハマったりしている状態のことを「沼」と表現しているのを見る機会が増えました。ちょっとこの言葉選びが興味深いなと思ったので、取り上げてみることにします。

「沼」というのは元々はどちらかというとあまりよいイメージがない言葉ではなかったかと思います。落ちたら抜け出せず溺れてしまうとか、もがけばもがくほど沈んでいくとか、助けを求めても人里離れたところにあって気づいてもらえないとか、周りの人もなかなか手が出せず助けたくても助けられないとか・・。流れがなく、淀んでいて、秘境的な不気味さ、不穏さが漂うような・・。「底なし沼」とは言うけど、「底なし池」とは言いませんね。五色沼は美しいですが、それも秘境に辿り着いたという非日常性が花を添えているのかもしれません。

ところで、何かに熱中したりハマったりすることは、そんなによろしくないことでしょうか。むしろ、好きなものがあって、それに没頭するほど専心できることは、わりといいことなのではないかという気がします。

ではどうして、「沼」というあまりよいイメージとは言えない言葉が選ばれているのでしょう。ハマっている人、没頭している人は、そもそもそこから抜け出したいと思っているのでしょうか。その世界で誰にも知られず一人沈んで「沼」に飲み込まれていくことを怖れたりするでしょうか。いや、そういう人は自らすすんでハマっていくでしょうし、その世界で一人ぼっちではなく、同じ「沼」にハマっている人と楽しく没頭していくでしょう。

たしかに、何かを究めようと思うと、どこかで壁にぶつかって、「こんなつらい思いをするくらいなら、こんな世界に入らなければよかった」と思うこともあるでしょう。しかしそれは往々にして、「沼」から抜け出したい動機を表しているというよりは、さらなる深みへと飛び込む前の躊躇やもがき苦しみといった場合が多いのではないでしょうか。あるいはコレクター的なハマり方をしている場合には、どこまでいっても後悔なんてないかもしれません。

すると、抜け出したいのに抜け出せないというイメージはどこからくるのでしょうか。一つの仮説としては、「周囲から」ということではないかと連想したりします。どんなテーマに関しても、ちょっと検索すればすぐにネガティブな記事や投稿が出てくる情報過多の昨今です。周囲からの嘲笑や揚げ足取りに振り回されずに何かに没頭すること、ハマることは難しくなっているのかもしれません。そんな中、雑音に惑わされずに自分の好きなことを追求している人を見ると、羨ましさと「自分にはそこまでできない」という悔しさとがぶつかって、「いやいや、あんなにハマったら大変だぞ、あれは沼だ」と言い訳しつつ、ハマっている人を「すごいねー」と遠目に祭り上げてお茶を濁すといったような・・。

また、「沼」という言葉には、ハマっている側が、時間もお金もそこに注ぎ込んでしまうという浪費っぷりを自嘲するようなニュアンスも含まれているのでしょう。しかし、もしかすると、その自嘲も、元を辿れば、周りからからかわれる前に保険として先手を打って自虐しておくという動機も関わっているのかもしれないと想像したりします。

好きなことを追求するのもいろいろ気遣いや注釈が求められるのだとしたら、なかなか面倒です。多くの人が心置きなく自分の好きなことに没頭できるようになるといいのですけど。

とはいえ、一人一人の個人が「沼」という言葉を使うときに上記のようなことを考えているわけではないでしょう。おそらく流行りの言葉の一つとして何気なく使っているものと思われます。ここで考えたのは、そのような言葉が選ばれてくる集団的・社会的な背景ということです。

(元記事投稿日2024年10月2日)

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