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森の冒険

これまで母の言う通りにして、間違っていたことなど一つもなかった。母の勧める学校に行き、一流と言われる会社に就職もできた。全て母のおかげである。しかし、どうだろう。今回ばかりは、いかに母の言うこととはいえ、従って良いのだろうか。

私の大好きなカレーライスをこしらえてくれた夕食時、出し抜けに母が言った。

「実はね、シゲちゃんに殺して欲しい人がいるのよ」

 母は、まるで買い物を頼むように私に殺人を依頼した。私は、母の言いつけならば、どんなことでもするつもりでいた。誰かを殺せ、と言われても従っていたかもしれない。しかし、母が殺したい相手が問題だ。その相手とは、他ならぬ、母自身であったからだ。

「私はこの世にあなたを産んで育てた。だから、あの世に送る義務があるのよ」

 母は、衰えていく我が身をみるにつけ、ずっと己の死について考えるようになったという。醜態をさらす前に死にたい。死に場所も決まっていた。地方の名家に産まれた母の実家はかつて、いくつもの山林を保有していた。その一つが、幼い日の遊び場だったという。母にとって山での体験が人生で一番輝いていた時期だった。その場で、人知れず土に還りたいというのだ。

 私と母は週末、2人で山に向かった。中腹にクルマを停めると、私は母を背負い山道を登った。春先の過ごしやすい陽気で、絶好のハイキング日和だが、もちろん、そんな気分ではない。ただひたすらうっそうとした登山道を登っていると、幼い日の記憶が忽然と脳裏に浮かんだ。家族で避暑地に遊びにいったとき、母が飲み物を買いに行くからその場で待っているように私に言った。そのとき私の目の前には密生した木立が広がっていた。母の言いつけを必ず守る〝いい子〟だった私が産まれてはじめて意に背き、まるで誘われているかのように森の中へ入っていった。枯れ草の絨毯をかき分け、奥へと進むと霧が立ちこめてきた。森閑を破る鳥の飛び立つ羽音にびくつきながら、私はずんずんと森を進んだ。進むごとに、胸が高鳴った。どこまでも広がる緑の大海原を鷹揚と泳ぐ魚になったような産まれてはじめて味わう開放感に駆られた。


「そういえば、あのとき森で迷子になって大変だったわね」

 図らずもあの日の記憶が母の脳裏にも過ぎったのだろう。母の声が背中越しに聞こえ、思い出の扉が閉じた。そうだ。あの日、私は森の中で迷い、12時間後に消防隊に救出された。時間が経つにつれ、幸せな気持ちは薄れ、1人震え、母の言いつけを守らなかった自分を責め続けた。

しばらく、登ると山林は急に開け、花畑が広がっていた。

「まだ、あったのね」

 少女のような母の声が聞こえた。私に降ろすように促すと、母は無邪気に花畑に座り込んだ。どうやらここを死に場所と考えているようだ。母は大量の睡眠薬を持参していた。彼女は長年の経験からそれをのんでも死ねないということを知っていた。そこで、私にとどめを刺すように命じたのだ。

「楽しい人生だったわ」

 母は満足げに微笑むと、薬を口の中にほおりこんだ。そのとき、どういうわけか心の奥底に押し込んでいた何かが私の中でわき出てくるのが分かった。薬の影響か、昏睡する母の姿を見下ろし、フラッシュバックのように浮かぶ。

 髪の毛を掴まれ、引きずり回されたときに見えた柱の小さな傷、真冬に下着姿で閉め出され縮こまるようにしてベランダから見た三日月、お風呂に沈められたあと滲んで見えた電球の光。

 母はいつも正しい。間違っているのは私のほうだ。私は、母の首に手をかけた。私の腕を解こうとする母の腕は、たくあんのようにひからびている。これ以上、力を込めれば死ぬ。それは、手のひらに伝わる頸動脈の感触で分かった。

 あのとき、森に行かなければ良かったのか。それとも、母になんと言われても、再び森に向かうべきだったのか。そうすれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。

 気づいたら、手をほどいていた。足下には苦しむ母の姿があった。

「シゲちゃん、殺して。お願い、殺して」

母は、蚊のなくような声で叫んでいる。私は聞こえないふりをして乱暴に母を背負った。

「お母さんを殺すことはできない。愛しているから」

 そう言うと私は、森の中を進んだ。死にたい、と心から願う母を置き去りにして。もはや母に刃向かったときの罪悪感は、深い暗闇にのみ込まれ消えていた。

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