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心の排泄

自宅が火事になり、夫が死んだ。警察は事件と事故の両面で調べを進めていたが、この度、不慮の事故だったという結論に達した。火事が起きたとき、私と子ども達は実家に帰省していた。夫は仕事の関係で、遅れて合流する予定になっていた。警察から失火の原因を説明されたが、あまりにも突飛すぎてとても納得のいくものではなかった。
 真実を知るため私は歌舞伎町のとある雑居ビルを訪ねた。地下の階段を降りると、看板のない黒いドアがあった。躊躇しながらそのドアを開けると、暗がりの店内に例の〝商品〟が並んでいた。チャイナドレスを着た妖しげな40代の女が応対した。
「ご予約ですか?」と女が私に訊いた。「いえ…」と私が首を振ると、「今ですと、一番早くて40分待ちになりますがいかがですか?」女は私を客だと思っているらしい。「客ではない」と断りを入れた後、スマホを差し出し夫の写真を見せた。
「この人、お店に来ませんでしたか?」私が尋ねると、女は「お客さまの情報はお伝えすることは出来ません」と頑なに口をつぐんだ。
「これは私の主人の写真です。先日、火事で亡くなりました。焼け跡から、こちらで買ったろうそくと、拘束具が見つかったのです」と私が言うと、女の顔はみるみる青ざめ、奥の部屋へ通された。
 鉄格子に囲まれたその部屋は、全面赤の壁紙が張り巡らされ、ベッドと拘束台が置かれていた。その店は会員制の高級SMクラブだった。店には打ち合わせスペースはなく、プレイルームで話をすることになった。女は、この店のオーナーで涼宮と名乗った。
「たしかにご主人は、常連で店では『日向』さんと名乗っておられました。お悔やみ申し上げます」
 涼宮は沈痛な面持ちで頭を垂れた。
「本当の事を言ってください。主人はそんなくだらないことで死ぬわけがありません」私は言った。
「確かにくだらないことです。ムチで叩かれたり、ろうそくを垂らされたり、…でも、人間は心の深いところで、そういう欲求を抱えているものなのです」
 涼宮は部屋の引き出しから、雑誌の記事の切り抜きを取り出し私に見せた。
「年間で300人がひとりSMで亡くなっています。私は、日向さんにグッズをお売りするとき、くれぐれもひとりでなさらないように警告しました。それでも、抑えきれなかったのでしょう」
 私は涼宮の差し出した記事をたたき落とした。
「あり得ません。うちの主人に限ってそんなこと。もう、いいです。ここに来たのが間違いでした」
 私はヒステリックに怒鳴り散らし、SM部屋を飛び出した。
 ところが、その1年後、私は同じ場所で拘束されたM男をムチで叩いていた。まだまだ、うまくいかない。ムチの叩き方も、縄の縛り方も、言葉の掛け方も修行が必要だ。私はここでは女王様だが、お客さまは無条件に征服させてくれない。警戒心をゼロにして、心の奥底にある欲望に手を届かさなければならない。涼宮に指導を仰ぎながら、その域に達するよう日々努力をしている。
 あれから私は、主人の死の真相を調べるべく奔走した。しかし、調べれば調べるほど、主人の死の原因が『ひとりSM』であったことを物語るだけだった。私の精神は蝕まれ、一切の家事をすることも出来ず、子ども達に迷惑を掛けるようになってしまった。周囲は、カウンセリングを受けるように促したが、私が行ったのは涼宮のところだった。かつて、彼女の前で取り乱し、ひどくなじった事もあったが、私の事を受け入れてくれた。涼宮は、今まで体験したM男たちとの秘話を語ってくれた。縛られて、逆さ吊りにされ、なじられ、男は涙を流しながら果てる。
着飾りすまし顔で歩いている人々。彼らは、立派な社会生活を営み、幸せな家庭生活を送っている。ただ、そんな彼らも心を掘り進めると、その先にはひどく恥ずかしい、愚かな欲望を抱えている。人は食事をすれば必ず排泄をする。それと同じように心も排泄しなければ、健全な精神を保つことは出来ない。問題は、私が妻として夫の心の排泄を手伝えなかったことだ。私は、いつも大切なものを見せずに誤魔化し、きれいなものばかりを見せて生きていたのではないか。

 目の前のM男は恍惚の表情を浮かべ、「もっと、もっと」と喘いでいる。私は、誠意を込めて、彼の股間にムチを入れた。
                 終わり

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