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涙の意味/ショートショート

「私ね、フツーの生活がしたいの。小さな家に、子ども二人。家族四人で食卓を囲んで。お友達のこと、学校のこと、最近、何が流行ってるとか、何でもないこと話したりして。そういうフツーの生活っていいと思わない?」
 マックスげんなりして無視した。すると、絵夢は「ねぇ」とオレの身体を揺すった。耐えきれなくなって腕を払うと、その拍子に、拳が彼女のあごにヒットした。うずくまり痛がる絵夢にオレは「そんなくだらねぇ話、二度とすんな」と、吐き捨てた。
 親に捨てられ、コンビニのゴミ箱を漁って暮らしていた小学生の頃を思い出した。風呂も入らず、毎日、同じ服を着ていてドブのような臭いを放っていたあの頃。オレも、絵夢が語るようなありふれた生活を夢見た。でも、そんなの夢のまた夢。まともな教育を受けられなかったために、ろくな仕事にありつくことが出来ず、行き着いたのはチンピラにもなれない半端もの。ジゴロの真似事気取り、日銭を稼いで生きている。フツーなんて、とてつもなく遠い。
 だから、絵夢から妊娠を告げられたときにも「堕ろせ」と即答した。「絶対に産みたい」と言う絵夢を罵倒し、アパートから追い出した。身重の女なんて、商品にならない。合理的に考えれば当然の行動だったが、日を追うごとに後悔の念が首をもたげてきた。もしかしたら、絵夢と子どもを持てば、彼女が語っていた〝フツーの生活〟をすることができたのではないか。今まで望んでも、絶対に手が届かないと思っていた、小さな幸せ。こんなオレでも、手に入れられる…
 居ても経ってもいられず、絵夢に電話をした。電話口の声は、少し暗かったが会うことには応じてくれた。オレは、役所に行って婚姻届をもらった。自分の欄を埋めて、絵夢に渡そう。彼女なら、きっと受け入れてくれる。
 約束の時間。呼び鈴がなった。絵夢だ。喜び勇んでドアを開けると、男の膝がみぞおちに飛び込んできた。息が止まり、うずくまると無数の蹴りを体中に浴びせられた。
「ほら、顔あげろ、色男」
 髪の毛を掴まれ、仰ぎ見ると屈強な男たちに挟まれ、中年男が仁王立ちしていた。絵夢の客で、オレが写真をネタに恐喝していた男だった。ヤツはためらいもなくオレの顔を足で踏みつけた。
「舐めたことするから、こういう目に遭うんだよ」
 そう言ってヤツはオレの顔につばを吐いた。男たちは、土足で部屋に上がり、家財を片っ端からなぎ倒しグチャグチャにした。男の一人が婚姻届けを見つけ拾い上げた。
「おい、なんだよこれ」
 ニヤニヤ笑いながら中年男に婚姻届を見せた。
「コイツ、こんなもん用意してたぜ」
 中年男は、玄関口に向かって叫んだ。すると、身体を硬直させながらゆっくりと絵夢が部屋に入ってくると、婚姻届を手にした。オレはもうろうとする意識の中で、絵夢を見つめた。すると、彼女もゆっくりとオレの方に顔を向け、しばし視線を交わした。悪いのは全部オレだ。やり直そう。ありきたりでつまらないけど、平和で穏やかな生活を二人で送ろう。もう、声も出せなかったが、オレは必死に絵夢に訴えた。
 絵夢の瞳から一筋の涙がこぼれた。そして、ゆっくりとしっかりと低い声で紡いだその言葉は…「もう、ぜんぶおそい」だった。散り散りになった婚姻届けが雪のようにひらひらと舞いおりてきた。男たちはなおもオレを痛めつける。絵夢は、壁に横たわりタバコに火をつけると、まさに、殺されそうになっているオレを冷淡に眺めていた。
そのとき、ようやくオレは絵夢の涙の意味が分かった。

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