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水の都 大阪

大阪というと、食い倒れ、お笑いの町というイメージが今では強いように思いますが、歴史を遡れば、少なくとも江戸時代から大阪は水の都でした。

 「幕末の駐日英国公使がヴェネチアにたとえた日本の都市といえば、大阪のことだった。河口の三角州に築かれ、縦横に堀川が流れる八百八橋の街。…」(日本経済新聞 2005年 11月12日)。記憶の引き出しにこのことがずっと残っていました。
 まず英国公使のことを知りたくて、初代公使オールコックについての本(『オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本』  佐野真由子 中公新書)に当たってみたところ、オールコックは 大阪には行っていません。(この本は内容がとても興味深く、かつ大変な労作です。腰を落ち着けて再読したいと思っています。)
 続く二代公使パークスは18 年間(任期1865年ー1883年)日本に駐在し、大阪開市、兵庫開港の任務に当たっているので、ヴェネチア云々は多分パークスの発言だと思われます。その時日本側には誰がいたのでしょうか? ヴェネチアと言われて、どんな反応をしたのでしょうか? ちなみに南米のヴェネズエラという国名はヴェネチアのようだ、とアメリゴ ヴェスプッチがいったから、という説があります。大阪にもヴェネチアに因んだ名称、愛称が生まれていたかもしれません。

 岩倉使節団は1871年から約2年間の間の後半のイタリア訪問の際、ヴェネチアにも寄っているようです。もしパークスが岩倉使節団に助言などしていたとすれば、使節団の出発前、あるいは帰国後にヴェネチアのことが話題に上ったのではないでしょうか。

 なにわ八百八橋と言われるほど橋の多かった大阪、中でも川が二本、直角に交わるように掘られ、その上の橋が「ロ」の字のように架かっていた四ツ橋、浮世絵にも描かれています。経済の発展を目指していくつもの川を掘削したのでしょう。ところが時代が進んでその掘った川の多くが自動車を通すために埋められ、今では面影もありません。

 『…もっとずっと前には、「心斎橋」は長堀川に架かる橋で、ここから西へ行ったところにある四ツ橋の交差点は長堀川とと西横堀川が交差するところで、四つの橋があった。堀を埋め立てたとき適当に壊していっしょに埋めてしまった橋の石が、地下鉄を通す工事のときに邪魔になって苦労したらしい。そんな話を、なんで私は好きなんやろう、と豆乳だから甘くないカフェラテを飲みながら思った。四ツ橋に四つの橋が架かっていたことを知っただけですごくうれしくて、できればその四つの橋が架かっている光景を見たいとなんで思うんやろうか。…』大阪出身の柴崎友香さんは『その街の今は』で主人公に語らせています。共感する人は多いのではないでしょうか? 私もまちがいなくその一人です。

 もしも、もしも、このパークス大阪ヴェネチアのようだ、という言葉が代々の大阪の指導者に受け継がれて、水の都としての大阪が生き長らえていたら、どうなっていただろうと想像してみました。過去を振り返ることは未来を考える上で無駄ではないでしょう。

 🚤 水路を可愛らしい船が行き交い、美しくデザインされた橋が人々を惹きつけ、大観光地になっている。
 🚤 京都丹後伊根の舟屋のように家々やオフィスのガレージは川に面していて、船で仕事に通い、買い物に出かける。自動車と比べて、環境に対する影響は大きいそれとも小さい?
 🚤 その船は水陸両用車(空飛ぶ自動車よりは早く実用化しそう)として使用可能。
  などなど。

 来年(2025)の大阪万博が廃棄物の埋立地で開催されるのは、ヴェネチアのようだと言われたことと比べると、なんだか残念な感じがしてしまいます。

 今でもクルーズ船の運行、食事やお茶を楽しむことができるカフェが設けられるなど、川や水辺を活かした取り組みがあります。それに加えて将来、最新の技術を駆使して、川や橋、特に四ツ橋などがあった時代を仮想空間に再現させ、橋をめぐり、川風に吹かれるなど、水の都大阪を体感できる場所が作られるとしたら、ぜひ行ってみたいです。

* タイトル写真に載せた手描きの四ツ橋の補足…縦の川ー長堀川、横の川ー西横堀川 橋は炭屋橋吉野屋橋、また上繋橋下繋橋の読み方は、それぞれ かみつなぎばし、しもつなぎばし です。

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