抗わない君へ
弱者男性の定義は人それぞれなのだな、としみじみ思う秋の夜。
私は、淘汰圧に抗わないのが弱者男性だと思う。
件の従弟について、当時も今も、可哀想だとかなんとかならなかったのかとか、そういう感情がまったく湧かない。昨日、急に思い至って驚いた。
存在すら忘れていた。これが弱者男性かと。
彼はアニメとフィギュアが好きで、数字が苦手。暴力性は皆無で、他人を怒らせることが得意。
生まれつき身体が弱く、いじめられっ子の見本のような出で立ちだった。
私は遠方住まいで、成人してからは数えるほども会ってない。ただ、ジャンルこそ違えどオタク同士共通の話題も多く、その手の会話は饒舌すぎるほど饒舌だった記憶がある。典型的なチー牛、という印象が強い。
それ以外の彼のことは、又聞きでしか知らない。
親族会議の結果、施設に入ったというのも母からの事後報告で知った。
本人が希望したわけではなく、食い扶持も稼げない・ゴミ屋敷・衝動的な借金などの彼の問題が可視化されていく中で、周囲としては面倒見切れないし放っておくのも危ない、という結論に達したゆえの判断だった。
申請すれば外出もできるが、基本的にはスマホも使えず起きてから寝るまで何をして何を食べるか自分では選べない生活らしい。
そのときは、そういうものか、と。
今は、淘汰圧に抗わなかったのだな、と感じる。
*
淘汰圧とは、淘汰される以外の選択の自由を取り上げることだと思う。愚行権すら。
生活保護を受けるひとは弱者だろうか。無敵の人になることを選択したひとは弱者だろうか。
社会不適合者のことを弱者と呼ぶならそうかもしれないが、どうにも腑に落ちない。
弱者アピール、社会への他責、追い詰められた末の加害であろうと、どれもが淘汰圧への抗いのように見える。「死にたい」と口にすることも。
弱者とは、
唯々諾々と潰されるひと。
誰の良心のフックにも掛からないひと。
淘汰されるべくしてされるひと。
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以上のことから個人的に、ペケッターランドでぴえんする女性や弱者を自認する男性のことを弱者だとは思わない。が、それをする選択ができたのなら次は何を?と聞いてみたくなる気持ちはある。
私は届く範囲にしか手を伸ばさない。
彼のことを語るのはこれを最後にしようと思う。
さようなら。