好きにつく優劣
好きなものがたくさんある。
食べ物ならうどん、動物ならしまうま、本は小川洋子の「薬指の標本」が好きだ。包装紙の匂いも好きだし歌を歌うのも絵を描くのも好き。映画も好き。
だけど、誰かに好きなものの話をするのは苦手だ。
世の中には自分の好きなものに多くの情熱とお金を注ぐ人たちがいる。
いろんなお店を食べ歩いたり、月に何十冊も本を読んだり、同じ映画を何回も観にいったり。
私が好きなものの話をした相手が、そういったプロの愛好家だったらと想像するといたたまれなくなって「もう何も言えない・・・」としょんぼりしてしまうのだ。
私はうどんがとても好きだが、別にあちこち食べにいったりはしない。市販の白だしでもめんつゆでも、最悪味噌汁に入れても美味しくいただける。意識の低いうどんファンだ。
映画だってテレビ放送で割と満足できてしまうし、絵だって別に特別うまいわけではない。改めて自分で書き出してみて落ち込んでしまうほど意識が低い。
この程度の気持ちで「好き」だなんて言ってごめんなさい。と、口をつぐんでしまうのだ。
先日某バンドが復活を発表した。
ライブの日程が発表され、数年ぶりのことにファンは浮き足立った。
私も高校生の頃からそのバンドのファンである。是非ともライブに行きたい。しかしtwitterで、「ずっと待ってたガチファンだけがチケットを手に入れて欲しい」「テストに合格した人だけにしたらいいのに」というようなことを言っている人を見てしまった。
「が、ガチファン・・・?」
私は動揺した。ファンクラブにも入っていない私に、チケット争奪戦に参加する資格が果たしてあるのだろうか。
推測するにこのファンの方の本意は「チケットが転売屋の手に渡って欲しくない」ということなのだろう。しかし、私はそのツイートを読んですっかり萎縮してしまったのだった。
大きなパワーを持つ「好き」も、自分の中だけで小さな宝石のようにキラキラ輝く「好き」も同じ気持ちである。そこに優劣はない。
わかっていても尻込みしてしまう。たくさん知っている方が「とっても好きなんだ」という感じがするし、いつも考えている方が「愛が深い」感じがする。
そんなことを悶々と考えながら、私は今日もたくさんある自分の「好き」たちをこっそり一つずつ磨いたり眺めたりして楽しむことにする。