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久しぶりの息子先生
10月の風が吹いております。
10月は、3人の息子のうち2人の誕生日月です。
秋の風が命を運んで来てくれたので、風に吹かれるとあの頃の幸せが蘇ってきます。
息子たちは、3人とも秋生まれ(次男は11月)なのです。
そして、夫は、11月に他界したので、生と死を私は、秋の風に記憶することになりました。
前日、息子先生から、
「旅をしながら仕事をしてるけど、いつまでもプラマイゼロって、どういうこと?」
呑み食いした分マイナスになっていないかと問われ、何も言えませんでした笑
「好きなことをして生きていくのは、たぶんいいことだ思うけど、綺麗に循環させなくても+にして家族に喜ばれたっていいんだよ」って言われました笑
考えてみれば、確かにその通りです。
なぜ、+にしないのか…息子先生に探られてしまいました。
『養われたいって思っているから、稼いではいけないって思ってはいませんか?』
そこをはずす必要があると…息子先生は言う。
「だって、養われたいんだもん」って叫んでる私がいました。
夫がいなくなって、養われなくなっているにもかかわらず、私は口では、働かなくてはと言いつつ、好きなことだけしているのだ。
それが、
収支のバランスが取れていればいいのか?
綺麗に循環してるから満足してるのか?
とりあえず、食べていけてるからいいのか?
と言う問題なのだろうか…そこを、息子先生が指摘してきた。
養われたいの想いの奥に何が潜んでいるのか…。
息子先生は、
「何も養われなくても、自ら豊かになってまわりの家族が喜んでくれていれば、自分が一番望むことなのではないかと言う。」
「なぜ、自ら豊かになることを自分に許さないのか、考えてみないといけない」と強く言う。
私は、養ってもらうことの奥に
甘えたい
守ってもらいたい
愛されたい
そんな気持ちが隠れていたことを知る。
何も、愛されている実感を養ってもらうことに紐づけしなくてもいいのだと…
守られていることも…
甘えることも…
そんなところで、確認しなくてもいいのだ。
そして、確認したくても、もう夫はいないのに、手放していない自分がいた。
甘えたい自分も、守られたい自分も、愛されたい自分も自分に迎え入れようと思う。
人に甘えること、人に守られること、人に愛されること=養ってもらうこと
そんな方程式が、私の中に根強くあったのだ。
養ってもらう相手が、父から夫に、夫から母にと変わっていった。
それが、私の幸せだと思っていた。
その中で、好きなことをして、好きなところに行って、囲いのなかで、自由にしていることが幸せだと感じていたら、ある日、突然囲いがなくなってしまった。
囲いがないので、不安になり
あるはずもない囲いの中にいたいと切望し
もっと広い世界があるのに出ようともせず
誰かが囲いを作ってはくれないかと…そんなことをしていることに気づかせてくれた息子先生だ。
もう、私の周りに囲いを作る必要なく
自ら豊かな人生を生きていこうよ
そう背中を押す息子先生が目の前にいる。
当たり前だが、子どものお陰で私は、つくづく幸せだと思う。
人生を、彩りよく豊かにしてくれるのは、人や自然から学ぶことなのだと、この歳になってやっと思えるのだ。
まだまだ生かされてるということは、楽しいことがあるということなのかもしれない。
自由学園の羽仁もと子先生の
『私は、面白いから生きています。』
という言葉が沁み入る今日この頃。
今日も徒然に秋の風に吹かれて綴ってみました。