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独身の叔母と私の人生

とても綺麗な叔母がいた。

小学生の卒業式に、母が出席できなかったので(何の用事があったのか、今では思い出せない)叔母が代わりに出席した。

叔母は父の妹で、7人兄弟の末っ子なので、とても若かった。(父は長男)

当時20代だった叔母は、とても保護者には見えず、年の離れた姉妹にしか見えなかっただろう。

今では、私の両親は他界したが、生前、母は、独身の叔母のことを案じていた。

どこぞの占い師にその叔母と私は、そっくりだとか(容姿ではない)聞いてきたものだから、事あるごとに注意された。

美しいが故の独身なのか、男まさりな気性のせいか、とっても良い縁談も断り続けて、晩年は、お気楽な暮らしをしていたが、宵越しのお金は持たない性格で、気前よく振る舞う人だったので、よく母が怒っていた。

なんでもハッキリ口にするのは、我が一族の性質で、母は、よく愚痴っていた。

母は、息子にさえ言いたいことを言えない人だったのだ。だから、ハッキリものを言う人が苦手だった。

母は、いらぬ心配ばかりする人だった。

子供のことは、もちろん(特に息子)だが、叔母が独身であることで、老後をどうするのかと心配していた。

だから、今のうちにこうするべきだとか、お金を貯めておくべきだとか、いらぬことなのだが、ひとりで考えては、私に話すのだった。

決して叔母に言うことはない。それが、母の性格なのだ。

母は、その叔母の姿に私を重ねるのか、やたら口うるさく私に話すのだ。

人のことを言ったところで、どーにもならないし、本人が好きなように生きているのだからいいではないかと、よく母に話していた。

それでも、母は、年老いた時、誰が面倒を見るのかとか心配していたが、そんな心配は、まったくいらなかった。

叔母は、先日、家の前でくも膜下で倒れて、そのまま逝ってしまったのだ。

一人暮らしなのだから、家の中だったら、発見も遅れただろう。

携帯も持っていないから、誰も電話が繋がらないと心配して訪ねることもないだろう。

まぁ、近所の人か仲の良い友人が訪ねては来るだろうから発見されないことはないだろう。

だから、家の前で倒れていたことも、寝たきりになることもなく逝ったことも、天晴れです。

母の心配は、必要なかったということなのだ。

母が亡くなった一昨年の夏、葬儀の時に叔母と会って話をしたきりで、今年の夏に、引越したと聞いて、ふと、会いに行こうかと思っていた。

でも、日々の忙しさにかまけて忘れていた。

まだまだ、元気でいると思っていた。

父の兄弟が、ほとんど他界して、父の思い出話ができる人がいなくなるのは、寂しいことだ。

叔母の人生は、どうだったんだろう。

そして、私の人生は、どうなんだろうと改めて考える。

今、もし寿命が1年と言われたどうする?って質問がよくあるけど、

1年って言われても、1か月って言われても、1週間って言われても、今のまま、何も変わらず、好きなことして好きなところへ行って美味しいもの食べて何も変わらない。

でも、5年って言われたら、少し考えるけど、やっぱり今と変わらない。

でもでも10年の寿命って言われたら、焦る。
このままではいけないって、思うんだよね。

もっと、きちんと生きていこうよって、自分に言っている笑

普通逆だろう!と突っ込んでる自分がいる。

残り少ない人生だから、

好きなことをしようよ〜

我慢せず、生きたいように生きようよ〜

となるのだが、

好きなように生きてるから、これといって、どうするってこともなく、このままでいいかって思った。

強いて言えば、オーロラ見たいなぁとか

エジプト行きたいなぁとか

でも、10年って言われた時、自分が人生をあきらめてたんだと気がついた。

10年も遊び呆けていても、きっとつまらなくなるだろう。身体も元気かどうかわからない。

ほんとうは、もっと魂がフルフルすることをしたいだろうし、もっと、人生に手応えが欲しいと思っていることに気がついた。

今の私は、人生、暇つぶしだ。

もう少しマシな人生を歩んでから死ぬのも悪くない。

叔母の天晴れな死に様も、母の天晴れな死に様もそれぞれが、自分の望んだ姿だった。

私は、2か月寝込んで見送られて死んでいこうと常々言っていたのだが、最近、2週間に変更した。

それも、長いかなと思うようになってきた。

父と母を自宅で看取ったので、私も看取られたいと思っていたが、息子3人では、期待できない。

天晴れな死に方ができるように、残りの人生を、暇つぶしではなく、魂をフルフルさせながら生きていこう。きっと、それが、まわりの人にとっても幸せだ。

そして、2日間寝込んで逝くことにする。

きっと、いい人生だったと言える。

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