息子先生 (自分が物事を考える時のベクトル編)
息子先生に言われる。
「話の最中に、話が極から極へと飛ぶのはやめてほしい。今、その話はしていない。」
とか
「そのベクトルの話はしていない」
?????
私にとっては、話の流れの中にあり、個人も社会も、人間も宇宙も同じ土俵の上にあるのだ。
「なぜ、同じ言語を使っているのに通じないのかなぁ。」と呟かれるうちは、まだましだ。
そのうち、「気持ち悪くなるんだよね。車に酔った時みたいに、身体が本当に吐き気をもよおす。」とのことだ。
言いたいことは、分かるような分からないような…。
で、いつも怒られる。
「ちゃんと考えてから言葉にしてよ!」
「自分の頭で考えて話してもらえるかな!」
「習ってきたことなんて、どうでもいいから理解してきたことを話して!」
考えてますよ。ちゃんと。と言いたい。
『考える』という同じ言葉を使っていても、どうやら、この言葉の認識が違うらしい。
言語って難しいと思う瞬間だ。
そして、人々は誰もが自分の思い込みの中で言語を使用しているのだ。
当たり前だと思っていることが、そもそもお互い共通認識としてなかったりするものだから、同じ言語を使っているのに、大きくすれ違うのだ。
何十年と連れ添ったパートナーでも、何十年と育てた子供でもそうなのだから、環境の違う場所で育った他人は、もっとそうだろう。
それでも、諦めずに私はわかり合いたいと思うのだった。
なのに、なのに、私は、根底では人間はわかり合えない生き物だと思っていたのだ。
なんてことだ。矛盾だ。
ベクトルを大きな世界に向けると、
人と人が、話し合ってわかり合えるのなら、戦争は起きないって声高に叫んでいた。
反対にベクトルを向けると、人には個性があって、考え方も違うから、意見が違ってもいいよねって言っていた。
わかり合えないほどの個性であったとしても、それは、個性だから、いいのだ。
なのに、戦争はなくならない。
戦争がなくならない方へとベクトルを向けた時の私の中に、『人はわかり合えない』ということを採用していることは、知っていた。
しかし、個人へとベクトルを向けた時、みんな違ってみんないいと言いながら、根底で『人はわかり合えない』を採用していたことに今まで気がつかずにいた。
私の思い込みである『人はわかり合えない』を『人はわかり合える』に変換してみることにした。
心がふんわり温かくなった。
何を私は恐れていたのだろうか。
わかり合えないことに
傷つくことに
恐れをなしていたのだろう。
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