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恐れが教えてくれるもの

愛する存在を失うこと――それは、わたしにとって最も怖いことです。そして、その恐れは過去の喪失の記憶とともにやってきます。夫のたくみさん、妹のゆみちゃん、愛犬のりんちゃん――大切な人たちを失ったときに感じた絶望感や孤独、自分を責める気持ち。それらが胸の中に深く刻まれ、時折、鮮やかに蘇ることがあります。

最近、我が家の小さな王子さま、愛犬のりおくんの手術を考える中で、この恐れがまた強くわたしの中に現れました。「もしものことがあったら」「わたしが間違った選択をしてしまったらどうしよう」――そんな不安が頭を離れず、涙があふれることもありました。その感情の奥には、過去の経験で感じきれなかった痛みや悲しみが残っていたのだと思います。あのとき、わたしはその感情を受け止めるには器が小さく、蓋をするしかなかった。でも今、少しずつ気づき始めました。これらの感情が再び浮かび上がるのは、今のわたしがそれを受け止める準備が整ったからなのだと。


恐れを受け入れるための「力」

恐れと向き合うには、ただ闇雲に立ち向かうのではなく、自分の中に「強さ」「優しさ」「理解力」という力を育む必要があると感じます。

強さ――それは、恐れや痛みをありのまま見つめる勇気です。時には目を背けたくなるほど苦しい感情も、「これが今のわたしだ」と受け止める力。もちろん、すぐにはできないこともあります。でも、その感情に少しでも向き合うことで、次の一歩が見えてくることがあります。

優しさ――それは、そんな自分を責めず、寄り添う力です。「なぜこんなに怖いのだろう」と自分を責めるのではなく、「それだけ大切に思っているからだよね」と、自分自身を優しく抱きしめること。この優しさが心の緊張を解きほぐし、恐れと向き合う余裕を生み出してくれるのだと思います。

理解力――そして、全体を俯瞰し、過去の出来事や選択を受け入れる力です。そのときの自分がどんな状況にいたのか、なぜそのようにしかできなかったのかを理解することで、自分や他者を許すことができる。そして、「今のわたし」がその経験をどのように活かしていくのかを見出す力でもあります。

これらの力を育ててきたのは、これまでの人生経験そのものです。そして今、その力を持つわたしは、恐れをただの「敵」としてではなく、自分を癒し、成長させてくれる存在として見ることができるようになりました。


いのちの真実と責任について

「いのち」に対する責任――わたしはずっと、その重さに押しつぶされそうになっていました。愛する人が病気になったり亡くなったりするたびに、「もっと何かできたのではないか」「わたしのせいではないか」と自分を責めることを繰り返してきました。

わたしはカナダにいる時、自然医師として、いのちと向き合う現場に身を置いてきました。そこで学んだのは、私たち医療者ができるのは「いのちを救う」ことではなく、その方の「いのちの最適な表現をお手伝いをすること」だということ。自己治癒力を最大限に発揮できるよう支えたり、必要に応じて医療の介入を行ったりする。それは確かに大切な役割ですが、最終的に治る治らない、生きる死ぬ、というのを決めるのは医者ではない、という真実です。

でも、いざ自分ごととして、自分の大切な人のいのちがかかっているとなると、その理性や理解を超えた感情が湧き上がってきます。わたしは、「わたしが救わなければ」「もっとできたはずだ」と、傲慢とも言える考えを抱いてしまうことがありました。その気持ちは、「医師」という立場の裏に隠れた無力感を補おうとする必死の思いだったのかもしれません。

そしてその結果、何もできなかった自分への悔しさや、自分の力の限界を突きつけられる痛みに向き合わざるを得ませんでした。「医師としての自分」である前に、「ただのわたし」――愛する人を失うことに耐えられない、一人の人間としてのわたしがそこにいました。

それでも、少しずつ気づいてきたのです。人が生まれ、そしていつかは死を迎えるということ。愛する人の死や病、それはわたしたちにとって避けられない現実であり、いのちの本質そのもの。それは、「いのちの真実」であり、誰にもコントロールできないものだということに。そして、その現実を受け入れることこそが、「いのちに責任を持つ」ということの本当の意味なのだと。

責任とは、いのちを救うことだけではなく、いのちの美しさや儚さを深く理解し、その瞬間瞬間を丁寧に大切にすること。そして、そのプロセスに寄り添うこと。それが、わたしが癒しに携わるものとして、そして一人の人間として果たしていくべき本当の役割なのだと感じています。


愛する存在たちからの贈り物

たくみさん、ゆみちゃん、りんちゃん――彼らはわたしにとってかけがえのない存在でした。彼らとの別れは、わたしの心に深い悲しみと痛みを残しました。それでも、今振り返ってみると、彼らはわたしに「いのちの美しさ」と「いのちの真実」を教えてくれたのだと思います。

彼らが先に旅立ったのは、わたしがこの地球で自分の使命を果たすために必要な経験を与えるためだったのかもしれません。そして今でも、形を変えてわたしを見守り、応援してくれているように感じます。辛い思い出がよみがえることもありますが、それもまた、わたしの成長の一部だと信じています。何よりも、喪失の悲しみに比例して、愛がそこにあることを確認しているのだから。


最後に

恐れは、避けたいけれども、そしてつい避けてしまうけれども、やはり避けるべきものではありません。それは、わたしたちを癒し、成長させてくれる扉でもあります。過去の経験がそうであったように、恐れと向き合うことで、わたしは少しずつ「本当の自分」に近づくことができました。癒しの真髄は、「全体性に戻る」というところにありましたから、まさに癒されてきたとも言えるでしょう。

もし、あなたの中にも恐れを感じる瞬間があるなら、それを否定するのではなく、少しだけその声に耳を傾けてみてください。恐れの向こう側には、必ず新しい気づきや癒しが待っているはずです。


このブログが、誰かの心に寄り添い、いのちの美しさに気づくきっかけになれば嬉しく思います☺️

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