人の粗を探すだけの暇人が批判の剣をこれでもかと振り回す
近年、ネット社会、SNS社会になってから特に、批判というものが目立つ。
ネットニュースのコメント欄は批判であふれ、SNSのコメントでも批判、批判だ。
批判はもちろん必要な態度でもある。
政治批判、政治家批判がなくなってしまえば、社会は無法地帯になりかねない。
批判的視点がなければ成長や気づきはなくなり、豊かな未来はなくなってしまうのは想像に難くない。
とはいえ、どうして気になるのかといえば、やはり批判の担い手が広くなり過ぎたことが一因だろうと思う。
仮に、批判する手段や批判する権利を「批判の剣(つるぎ)」と呼ぶとすれば、
今はネットさえ使えれば誰でも批判の剣を振り回すことができる。
その昔、批判の剣を扱う者は、権威ある専門家であったり、実績のある(そして言語力もある)ジャーナリストだったり、信念を持った活動家だったりした。
剣を振る側としては、間違っても自分は同じ轍を踏んでいないことを自負、証明するだけの確かな出自を有していたものだし、批判するならば批判するだけの論拠や背景を継続的に示せるひとかどの人物だった。
だが今は、自分のことはさておいて、人の粗を探すだけの暇人が批判の剣をこれでもかと振り回す。
何一つ身分も明かさず、発言の背景も論拠もなく、ただただ相手を傷つけたいがため、世に一矢を報いたいがため、いたずらに、自己快楽のために、剣を振り回す。
大勢の人間に剣を振り回されれば、喰らった方はひとたまりもない。
例え、批判が的外れだろうが屁理屈だろうが、数の力にひるみ、多大なるダメージを負う。
数の力はすごいよ。
どんなにメンタルが強そうに見える人だって人の子、しんどいもんだよ。
剣は文字通り流血をもたらす場合もある。
もちろん、名もない群衆は罪を負うことはない。自分の剣が相手を傷つけたとは思わない。
的確に相手を傷つけようとして振っていたのにだ。
「批判」というと、言葉のどこかに正しさが宿る。
でも、ネットというフィールドで飛び交う顔を持たない批判は、もはや批判ではない。
下劣なあざ笑いだよ。
だが、残念ながら、世の流れというのは変えられるものではない。
こうしてタイピングしている文章だって、顔のない批判には違いない。
自己矛盾をはらみながらも、それでも思う。
負けるな、ネットの声に。