喧嘩になっても、そこにある自愛。
意見が違うときというのは、実は意見が違うのではなく伝えていないことがあったり、上手く伝えきれてないことがあったりするだけだったりします。そして、その一言を言ったがため、あるいはその一言が上手く伝わらないために食い違いが起こるように思います。
怒る=悲しみの感情をぶつけずとも、嫌だと思うことを伝えることはできると言うことが私のたどり着いた方法です。これを分かるまで、気を回して言いたいことを飲み込むことが多くありました。でも感情が拗れているのでどうしても怒ったままコミュニケーションを取ってしまうと言うパターン。怒らずとも伝えることができると分かるまでこのパターンが続きました。
ですが、揉めていることも、傷ついていることも、すべて自分が選んでやっていると思い至ることで、ただ嫌だと思った感情をそのまま口にすると言うことができるようになります。そう感じることも、自分で望んで選択したのだと全て責任を自分にあると思えると被害者的な意識を持たなくて済みます。
そうして、一連の出来事の中の私の情けなさも、器の小ささも、怒って感情を害していることも、あぁ自分が哀れだなぁ、小さいなぁ、でも一生懸命に生きているんだなぁと思えることを自愛だと思うのです。いたいけであるなと何となく慈悲の気持ちまで湧きます。笑。
駄目である自分の支離滅裂な奮闘も愛おしく思えると、勝手な忖度で相手に自分の感情をそのまま伝えることが罪悪感なくできるようになります。
私と言う肉体のモビールスーツに入って人を生きる私。その身体を通して、経験を通して、あらゆる感情を経験して、生きることを噛み締めてゆく私と言う魂。喧嘩になってもならなくても要は心配はいらないと言うことです。揉めるのもデトックスの内と思うと、その懸命さにただただ私=私たちが愛おしい気がするのです。