キムチ

 キムチという食べ物がある。
 この言葉を耳にしたことがある人は、かなり多くいるはずである。今ではスーパーでも、コンビニでもよく目にするようになった。
 僕が子どもの頃はそうではなかった。僕は母とともに年に一度か二度、夏・冬休みに長野にある木曽の母の実家を訪れていた。その頃は、今のように辛ラーメンやチャミスル、韓国海苔や韓国のお菓子が簡単に手に入るような世の中ではなかった。母と僕のトランクの中には、プレゼントとしてそれらのものがたくさん詰まっていた。その中にはキムチもあった。
 韓国では、「キムチ」は「キムチ」ではない、とよく言われる。この矛盾でしかない命題に、僕は幾らか同意する。それは、「김치(韓国語での、キムチ)」は「キムチ」と違う、ということを意味するのであって、その点で僕は同意せざるをえない。
 からさの違いを浮かべる人が多いかもしれないが、からさではない。
 韓国では年がら年中キムチを作る。その種類もたくさんあり、その種類よりもたくさんのバリエーションがある。柿を擦って入れる家もあれば、なしやりんごを入れるところもある。小エビの塩辛を基本とするものもあれば、小魚をそれとするものもあり、そのバリエーションは数え切れないだろう。
 だが、ここで言いたいことは、韓国のキムチを本質主義的に扱い「優越」なものとして位置づけるためではない。
 しかし、韓国のキムチと日本のキムチには大きな差があることは否めない。僕が感じる最も大きな差異は、二点ある。甘さと、発酵度だ。日本のキムチは甘さがあり、発酵をしないようであるが、韓国のキムチは甘さがなく(あるいは違う)、発酵する。
 (断っておきたいが、在日朝鮮人の方々が作っているキムチは、ここで日本のキムチの範疇には入れないことにする。また、僕が手にすることのできるキムチは、一般的に販売されているもの、つまり工場などによる大量生産の産物であるだろうが、韓国で食べるキムチは、そういったものもあれば、家で作るものもある。その点はこの比較の盲点であるが、この散文の目的は、研究ではないことを念頭においていただきたい)
 
 今やCOVID19のおかげで、さらには変異種やらオミクロンやらのせいで、キムチを送ってもらえないが、その前まで母はよくキムチを送ってくれていた。それは、「김치(キムチ)」だった。
 母は日本という国に生まれ、二十数年を長野県の松本市と木曽福島町で過ごした。その後はオーストラリアのブリズベンと、米国のニューヨークで数年過ごしたのちに、父と結婚し韓国に移った。母は地方参政権はあるが、大統領選挙権はない紛れもない韓国における外国人であり、日本人だ。だが、「韓国人」とは何か、「日本人」とは何か、という問いに簡単に答えられる人は少ないだろう。簡単に答える人の方がわかってない場合がより多いとでもいうべきだろうか。
 というのも、僕の母の「김치(キムチ)」は、僕が今まで食べたキムチの中で一番美味しく発酵するキムチだからだ。
 僕は日本で生まれたが、生まれて1年も経たないうちに韓国へ移り、日本とのつながりといえば大学に入るまで年に一度、二度母の実家に訪れる程度であった。つまり、20年余りを韓国で過ごした。僕は全羅南道に住んだ。この地域は韓国でも食べ物がうまいという評判があり、もうかなり一般化された表象として固着しているとしても過言ではないだろう。その全羅南道に住む、となりのKおばさんの作ったキムチも、人村向こうでスーパーと精肉店を営むKおばさんのキムチも、あらゆるアルファベットの付く人のキムチも口にしたが、僕の母のキムチより飛び出て美味しい、と思ったものは一つもなかった。
 今は、韓国に30年も住むが日本で生まれ20数年を過ごしたため「日本人」とされる母が、日本に生まれたが韓国で育ち、今は日本に住む「韓国人留学生」となった息子にキムチを送ってくれるのだ。だが、そのキムチは、発酵せず、甘いキムチではない。韓国の中でも最も美味しいキムチなのだ。

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