アフガンの撤退に対するTBSの報道を受けて
2021年8月31日。アメリカが20年に及ぶ戦争を終わらせ、アフガニスタンに滞在していたすべての軍を撤退させた、との報道があった。TBSの報道は驚くべきに平易で、愚かなものであったように感じる。そもそもの期待値もなかったが、その愚かさには驚愕せざるを得なかった。
2001年の9・11テロに対するほぼ仕返しに近い侵攻は、当地にあるある団体を支持し、彼らに政権を握らせるためであった。アメリカが支持をした者どもは「政府」となり、その反対側にいたものは「タレバン」などの名前がつけられたテロ組織になっていた。アメリカがよし、とした政権は、アフガニスタンでどのようなことを行おうと「正当な」政権となり、それに反発するものは「テロ組織」になった。そして、そのようなアメリカがわの結果だけを鵜呑みにすることも、世界各国で起こっていたのではないか。我々は、アフガニスタンについてどれほど知っていて、判断を下せるのか。メディアで出しているアフガニスタンの諸相と、メディアからは目にすることのできない、実在するアフガニスタンについて、我々は正しい判断を下せるのか。
大韓民国でも全く同じようなことが過去に起こった。1948年から一年余りにかけて済州島では大虐殺が行われた。島民の三分の一が亡くなったとされる「4・3事件」がそれである。アメリカを背負った李承晩政権は、北と南を分け、トップの座に座るため南半分だけでの単独選挙を進めた。アメリカは冷戦下で、アジアにおける自らの立場を確固たるものとしたいが故に、それを後押ししていた。単独政府樹立に反対する人は溢れ出ていた。済州島でももちろんそうであった。南の単独選挙と単独政府樹立に対する反対デモ、そして旧帝国主義に従っていた警察などに対する反発は、「反乱」とされ、冷戦の時代に「自由主義陣営」で最も悪だとされていた「赤」という名札が付けられ虐殺された。
その人たちは「赤」でもなかった。「赤」だとしても、民間人をも含め虐殺することなどあってはならないことであった。しかし、当時の政府とアメリカ軍は「正義」を名乗り、相手は「悪」とされ、虐殺が正義の名の下に行われたのである。
TBSの報道は恐ろしいほどアメリカ目線からしかアフガンを取り巻く政治・歴史的事件を見ていなかった。アメリカが撤退したとの報道の後には、「アメリカ軍人数千人が死んだ」「何兆のお金が投資された」とされ、軍用飛行機から星条旗に包まれた棺が降ろされるところを悲しそうに見ているバイデンの姿が映された。
アフガニスタンで、タレバンといういわゆるテロ組織が生まれた背景はどういったものであるか。アメリカがアフガニスタンでどれほどの人々を殺したか。どれほどの経済的損失をもたらしたか。自らの味方である「自由主義陣営」に属しないものに対する「こちら側の視線」ではなく、あちら側の視線、意見といったものはどういったものであるか。などの、問われて然るべく質問は全くなされなかった。
アメリカの軍人が亡くなったことは、アメリカの政策や軍事政策がどういったものであろうと、人が死んだという意味で悲しみに値するものであろう。それを悲しむことには何の異議もあってはならない。だが、それは「人」として悲しまれるべきである。「アメリカ人」とか、「アメリカ軍人」であるためであるのは些か疑問を抱かせる。ましては「アメリカのために犠牲になった偉大な軍人」などと修飾されるのはさらに拒否感を抱かせる。
さらに、日本で「アメリカの軍の損害」を強調することは、なぜなのか。いや、アフガンの人命・経済・軍事的損失について全く語らないことは、なぜなのか。全く偏った見方は、日本の立場を良く見せてくれるとも言える。だが、一つ思い浮かべるべきことは、戦後の日本の姿勢のように思われる。
戦後日本は、長崎や広島の原爆被害や東京大空襲、そして自らの軍による被害による「被害者」として姿を変えた。8月15日は「終戦記念日」と呼ばれるが、韓国では「光復節」と言われる。光を取り戻した日、という意味だが、光を奪っていたのはもちろん大日本帝国であった。大東亜共栄圏を叫び、アジア諸国を侵略していた大日本帝国は、一瞬で消え去った。残ったのは、植民地化され搾取され、虐殺された「旧植民地の被害者」と、第二次世界大戦で多大な被害を被った「戦後日本という被害者」のみが残ったのである。
今を生きる日本人に責任がある、などのことでは決してない。だが、間違っていたことは認めるべきであり、歴史の中心に記されるべきである。アメリカのアフガン関与、韓国での独裁政権による民主化運動の弾圧、大日本帝国の周辺国の侵略などの問題は、「過ち」としてしっかり語られるべきである。それはいかにしても擁護できるような事柄ではない。
これは、日本(人)対旧植民地(民)などといった二項対立的言説によって語られては、決してならない。数億の個々の人間が住む社会においての、皆の背負うべき恥ずかしい過去なのであり、その問題を正面から見つめること、そして直接的被害があった人、場所には被害に相当する補償が行わられるべきであると思う。その被害者は、決して旧植民地民だけではない。沖縄戦で多くの人命を失った沖縄の人々(今現在も米軍によるレイプや殺害などの事件が相次いでいる)、東京大空襲で被害を被ったが何の補償も得られなかった東京都民(軍人のみが補償を受けた)、満州に捨て去られた満州棄民、ブラジルやペルー、ハワイなどにほぼ騙されて送られた日系人などなどそれらは「日本」という括りの中にもたくさん存在する。
確定すべきは、「被害者」なのである。被害者の被害を見つめ、正確に捉えるために彼らの声を聞くことが求められるべきである。アフガニスタン問題における被害者はアメリカのみなのだろうか。そうではなかろう。
被害者側の目線を受けてこそ、そもそもの背景にはどのようなことがあったのか、中東を火薬庫にした背景としてフランス、イギリス、アメリカなどの当時列強はどういった役割を果たしたのか、といった歴史を問いただす力が生まれて来るのであろう。