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数霊とは何か
田上晃彩著「数霊から見た仏法の真理」より
数霊とは
「命そのものの働きが、数と言葉・文字の上に投影し、顕現してくる。その理こそ、かずたまであり、文字で書けば数霊である。」
「また現れてくる数と文字によって、命の働きが、人間にとって、真なるものか、未来に向けて、どうすればよいか、どうあるべきか、の問いに答えうる命の学びである。」
また次のようにある。
命の学びとしての数霊学では、数霊を学ばんとして集まった多くの弟子達に、常に語っていることは、
「われの前には誰がいたか。先生がいたではないか。その先生の前にはだれがいたか。やはり先生がいたではないか。このように根源の始原に遡って行くと一人の生命と、自然との対応でしかないではないか。それが先生なのだ」と。
また私は言う。
「文献のまえには何があった。文献の前には文献があるではないか。その文献のまえには何があった。やはり文献があるではないか。このように、根源の資源に遡って行くと、文献はなくなって、あるのは、一人の生命と、自然との対応しかないではないか。これこそ、生きた文献である」と。
一つの生命、われという表現にいいかえてもよい。そのわれが、自然との対応の中から、人間にとって、人間が生活して行く上に必要なものは何か、真なるものとはなんであるか。いまより未来に向けて、どう対処すればよいかの問いも、それの答えも、その中から引き出せるのではないだろうか。ここには先生もいなければ、文献もないのである。在るのはわれと自然との対応だけである。
われが向かう自然と、自然の中にあるわれ、ここにこそに命から湧き出でる知恵というか、創造の心があるのではないだろうか。