僕の頭の中
『令和』
5月1日から日本で主に公文書とかで使うための年号/元号が今日発表されたらしい。
僕は昨日のアルプス登山の疲れで全く知らなかったけども。
TwitterやFacebookを見ていると年号制度/元号制度に対する批判/賛美や『令和』そのものに対する批判/賛美が溢れかえっている
ここで自分も少し言及して頭の整理をしたい。
まず年号制度/元号制度そのものを改めて振り返ってみる。
自分は生まれた時から今の今まで「平成」という年号を使っていろんな文書や、もっとインフォーマルな場面でも今生きている時間を理解、記述してきた。(もちろん「西暦」を使うことの方が圧倒的に多かったが。)
平成8年とみると、「あ、自分の生まれた年だ」と思うし、平成30年というと、「もうそんな年かあ」という感情を自然に抱くように育った。
この意味で僕は年号に「時間の感覚を支配されている」のかもしれない。
現代を生きる人々にとって「支配される」と言われるとちょっと批判したくなる気持ちもわからないでもないが、個人的には一つの理解の枠組みとして、まあいいんじゃないかと思う。
ただし、多くの人がいうように、文書によって(年号と西暦の)統一がなされていなかったり、ましてや両方記入せよみたいなフォーマットが存在したりすると単純に効率を損なうので、公文書などで年号を使う習慣は不要であるように思う。
元号によって、「時間」を理解したり、認識したり、カウントしたりするアジア特有の(それを言えば西暦は西欧特有の、イスラム暦はイスラム圏特有の)伝統文化、
その中でも、「時を有限に刻む」という元号ならではの特質は機能的に劣っている一方、傲慢さがなく面白いと思うので、多様性の面で残るといいな〜くらいに思う。
ただし、
年号制度について「身体的」に支配される/身体化するのはごめんなのでわざわざニュースで年号発表を見たりということはあえてしたくない。
また、
お上が勝手に決めた元号を使い続けなければいけないということについて、じゃあ西暦も決まったプロセスははっきり言ってよくわからないし、いつか誰かが決めなきゃいけないんだからまあいいじゃんとは思う。
たださっきも言及したようになるべく元号に込められた(万葉集が如何の斯うの、このような世の中になることを願う、というような)政府見解を「薄めて」浸透すればいい、するべきだと思う。
あくまで天皇は象徴だから、それと同じように『令和』だろうが何だろうが、ただの時をカウントする年号であって特に我々が何かをするよう求められるべきものではないように感じている。
まとめ
・僕はすでに「時間理解」の面で元号に支配されているが「身体的」支配からは逃れたい
・ドキュメントなどに元号は機能的にふさわしくない
・「有限な時間認識」という文化特性自体は残ったらいい
・政府見解が薄まった形で浸透するのがいいんじゃないか
#元号 #令和 #InperialEraName #時間的支配 #文化保護
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