日々是レファレンス 文学ムック たべるのがおそい vol.6
先日、ボルヘスの「シェイクスピアの記憶」に関する記事を書いたが、その過程で別のパターンを見つけてしまった。ボルヘスの『伝奇集』という短篇集がある(僕のいちばん好きな短篇集で「バベルの図書館」や「記憶の人、フネス」が収録されている)が、そこに「八岐の園」という作品が入っている。ボルヘスには珍しく中国人が主人公で最後にあっと驚く仕掛けが施されているが、この作品の別の翻訳があるというのだ。『たべるのがおそい』という少々変わったタイトルの文芸誌で(「文学ムック」と名乗っているので厳密には文芸誌ではないのかもしれない)そのvol.6に「あまたの叉路の庭」というタイトルで収録されている。翻訳したのはこの文芸誌の編集長で西崎憲という人だ。刊行は2018年10月。6年近くも前の話だ。自らのアンテナの低さを呪いながら早速Amazonでポチる。ちなみにこの『たべるのがおそい』はvol.7(2019年4月)で残念ながら終刊している。
2日ほどで届いたので、何度も読んだ『伝奇集』の「八岐の園」を再度読み返し、早速『たべるのがおそい』の「あまたの叉路の庭」を読む。正直なところ取り立てての感想はない。めっちゃ読みやすくなってる!とか、ほほぅこういう表現のしかたもあるのかと感心するといったこともなかった。登場人物の敬体と常体の使い手が入れ替わっているというのはあったが、全体を通してさほどの印象の変化はない。ぶっちゃけある日突然『伝奇集』の「八岐の園」がこの「あまたの叉路の庭」に差し替えられていても気づかないのではないかとも思う(それはそれで良い翻訳と言えるのかもしれない)。この『たべるのがおそい』vol.6は特集「ミステリ狩り」とされているので、ミステリと言えなくもない「八岐の園」を編集長自ら翻訳してみたといったところか。
「あまたの叉路の庭」を読み終わってしまい早々にこの文芸誌を買った目的は達成してしまったのだが、せっかくなので他の作品も読んでみることにした(むしろ「あまたの叉路の庭」は最後に収録されている)。そういえば文芸誌を買って読むのは初めてかもしれない。
で、だ。どれも面白かった。全然知らない作家ばかりだったのだが、どれも面白い。短歌が割合多く、僕は短歌が苦手なのでそこの面白さは分からないが、短篇小説はどれも面白かった。とくに印象に残ったのが深緑野分(ふかみどり・のわき)という人の「メロン畑」という作品で、ガルシア=マルケス(のマジックリアリズム)に、このときまだ2018年なのに「すわ感染症?」という最近のトレンド(?)を盛り込んだ短篇だ。主人公の視点の移動など心地よさすら覚える(ハッピーな話ではないが)。酉島伝法という人の「彼」という作品も、断章で少しずつ「彼」の像を描き出してゆくのだがそれが独特の間合いで、彫刻するようでもあり塑造するようでもある。大滝瓶太という人の「誘い笑い」という作品は、架空の夫婦漫才コンビをまるで実在したかのように描写しており、それこそボルヘスのような味わいだ。どれも面白くて、最後にもう一度読んだ「あまたの叉路の庭」までなんとなく面白いような気がした。いや面白いんですけれども。
表現は良くないかもしれないがガチャのような文芸誌。今回ボルヘスに引っ張られて読んでみたが、新鮮な読書体験だった。新しい世界を開いてくれる(読書的な意味で)のかもしれない。