汗が臭い
汗が臭い。
注意していただきたい。「汗臭い」のではない。「汗が臭い」のだ。
もともと汗掻きの体質であるので、汗を掻くことによる悪臭の対策にはかなり気を使っている。こまめに汗を拭き(タオルを使用するのはもちろんのこと、市販のデオドラントシートなども活用している。一度使ったタオルはすぐに臭くなってしまうからだ)、制汗スプレーを使い、着替えの下着やTシャツを何枚も持ち歩き、頻繁に顔を洗う。小鼻の横と耳の後ろなどはすぐに悪臭を放つので要注意だ。
汗は、発汗しているそのときではなく、乾いたあとに臭いを残す。汗を掻いてTシャツが濡れているときではなく、乾いて塩を吹くようになると悪臭を発する。こまめに着替えなければならない。蛇足であるが、汗が乾いたあとの塩、僕の場合は衣服以外にもとくに肘の部分に白く吹くことが多い。肘に塩田。ざらざらしている。あるとき魔が差して、この肘の塩を舐めてみた。卒倒するかと思うほど臭く、塩辛かった。
そんなわけなので、若い頃から臭い対策を怠らないように、いやむしろ歳を重ねるにつれてますます気を使うようにしてきた。一般的に考えて、そりゃ若い人よりもオッサンの方が臭いだろうからだ。
しかし、そんな日々の対策や努力を無に帰すような出来事があった。
自転車が好きでたまにサイクリングに出かける。気分よく走っていると、どこからともなく異臭がする。二の腕のあたりが臭い。それが自分の汗が発するものであることに気づくのにそんなに時間はかからなかった。乾いたあとの臭いではなく、掻いたそばから発せられる汗の臭いが臭い。汗臭いのでなく汗が臭い。これは一大事だ。これまでの対策は乾いたあとの臭いに対するものであった。どんなに消臭に気を配っても、掻く汗そのものが臭いならもうどうしようもない。もう誰も近寄ってくれない。ただでさえぼっちのオッサンなのに、そのうえ汗まで臭いなんて(いや、汗が臭いからぼっちのオッサンなのか?)。
そのことに気づいてからはもう絶望的な毎日である。できるだけ汗を掻かないようにと思うのだが、そう思ったそばから汗を掻く。むしろ、汗を掻いてはいけないという緊張感が余計に汗を掻かせているとも言える。首に巻いているタオルや手ぬぐいから異臭が漂う。汗を吸い込んだ帽子から異臭が漂う。それが乾くともう、凶器(狂気)とも呼べる臭さだ。
女性の隣に立つような状況。緊張で汗がだらだら流れ落ちる。自分が、人間というよりも、何か臭いものでできた柱のように感じられ消えてしまいたくなる。
実は思い当たる節はあるのだ。自転車に乗ったり、トレッキングをしたりするとき、汗抜けをよくするために少し特殊な下着を着ている。太目の繊維で網目状に編まれたベースレイヤー。これが上に着ている衣類との間に空間を生み出すことで汗抜けを良くしているのだ。この網目のベースレイヤーと、速乾性の衣類を組み合わせると汗が発散されやすくなり、衣類が肌に張り付くこともなく快適に過ごすことができる。この汗抜けというのは意外と大切な要素で、衣類が肌に張り付いて不快になるだけならまだしも、例えば冬にこの状態が続くと汗冷えで体温低下を引き起こすということにもなりかねない。汗抜けの悪い下着の代表格としてユニクロのヒートテックに代表される、吸湿発熱機能を持つ機能性下着があるが、寒いからといって冬山登山でヒートテックなどを着用すると汗冷えで最悪凍死しかねないのである。僕のように汗掻きの人間は、冬の運動時にはちゃんと汗抜けを考慮した服装を選ばなければならない。たとえばこういうのである。
しかし肌をさらさら快適に保つということは、汗を掻いたそばから外に発散させるということである。僕のように、汗そのものが臭い人間は、歩く公害となる。自分は快適であっても、周囲の人間に不快さをもたらす。経済学的にいえば「歩く外部不経済」だ。
それに加えて、このミレーのドライナミックの場合、マァその見た目が特殊というか、たとえばこれを着たまま銭湯に行って人前で服を脱ぐのはちょっと抵抗がある。これを着るたびに、Right Said Fredという人のI'm Too Sexyという曲を思い出してしまう。なんというか、臭いだけではなくて見た目まで外部不経済な気がしてしまうのだ。
見た目のことは置いておくとしても、この「歩く公害」問題をどうしようかと考え、根本的な解決策がないまま数年になる。そんな折、敦賀駅前の書店「ちえなみき」の読書会で読んでいる『自省録』に以下のような一節を見出した。
これはもう、世の体臭に悩む中年男性に対するストア派的福音ではないのか。「だってそういうものだししかたないじゃん」という内容を、人間に備わった理性の働きから(これまでの議論も踏まえて)みごとに説明している。ほんともう、みんなごめん。臭いのはどうしようもないねん。あきらめて。