国家緊急権
この週末、ニュースで報道される隣国の政治状況をぼんやり見ながら、ひやあえれえことになったなぁと思う。いまさらここに書くまでもないことだが、2024年12月3日、韓国で非常戒厳令が発布された。
さいわい非常戒厳状態は翌日未明には解除されたものの、「戒厳」もしくは「戒厳令」という言葉のもつインパクトは相当なものなのではないか。正直なところ僕も、戒厳令など歴史上の出来事かフィクションの中のことぐらいにしか思っていなかった。過去に日本で戒厳令が敷かれたことといえば昭和11年の二・二六事件だろう(厳密にはこれは緊急勅令に基づく「行政戒厳」であって、憲法の停止等を伴うものではなかった。いわゆる天皇の非常大権あるいは戒厳大権に基づく戒厳令は、大日本帝国憲法下において発令されることはなかった)。フィクションでいちばん身近なのは大友克洋『AKIRA』のネオ東京における戒厳令と大佐率いるアーミーのクーデターか。作中、第三次世界大戦以降のネオ東京(および日本)がどのような国家体制なのかはよく分からないのでこれ以上は言及しない。
学部生の頃に受けた国法学の講義をぼんやりと思い出す(僕、法学部だったんですよ)。国家の緊急時に際して憲法を一部停止して行政機関等に大幅な権限を与える非常措置をとることによって独裁を図る権限(そして緊急事態をすみやかに脱することを図る)のことを、国家緊急権(Staatsnotrecht(独))という。国家の緊急事態とは、戦争や内乱であったり大規模災害やテロリズムなどを指すが、戒厳令の発布は国家緊急権の最たるものだろう。そのとき講義をしていた先生は「国家の極限状況」という言葉を使っていたと記憶する。国家の骨格、基本法たる憲法を停止するほどのことなのだからそりゃそうだろうなぁと思う。下手すりゃ国家の解体である。ホッブズのいう「万人の万人に対する闘争」状態の再来だ。
憲法上、何らかの形でこの国家緊急権に関する条項を有するものは、1789年から2013年までに世界で制定された約900の憲法中、93.2%だという(Wikipediaによる)。そして大韓民国は憲法にこの規定を持っていたということだ。憲法に国家緊急権に関する規定を持たない数少ない国にはアメリカ、カナダ、イギリス、日本(日本国憲法)が含まれる。Wikipediaによるといわゆる大陸法の伝統を持つ国には国家緊急権があり、法慣習や判例を重んじる英米法の国にはないらしい(そもそもイギリスには成文憲法がない)。大陸法の伝統でもなく英米法の伝統でもない日本はその点微妙だが、この国家緊急権に関しては、規定がないのは憲法の欠缺だとする立場や、いやそんなものそもそもなくてもいいのだという立場があっていろいろらしい。とにかく日本には国家緊急権に関する規定は現在のところなく、導入されるような話も今のところないようだ(ひょっとすると今回のことを契機に議論されるようになるかもしれないが)。
で、お隣の国の話に戻る。非常戒厳が宣告された後、議員たちは議会に走り、市民も議会前に集まって封鎖されないようにしたり、議員たちが議場に入るのを手助けしたりしたのだという。韓国の憲法では「国会議員の過半数が賛成して要求した場合、政府は戒厳令を解除しなくてはならない」と規定されているため、軍隊等による議会封鎖を防ぐためであったと思われる。議会に集まった与野党の議員190名全員が非常戒厳解除に賛成し可決した。議員が国の骨格たる憲法その他法律に詳しいのは当たり前としても、ここで行動を起こし議会前に集まった市民たちに関しては賛嘆の意を禁じ得ない。光州事件の記憶がそうさせたといった談話を目にしたが、何らかの理由で発令された戒厳令(まれにみる悪手だなどと言われているが、詳細はいずれ明らかになるだろう)を民主主義の危機と自ら判断し(誰かの呼びかけに応じたか自発的なのかはともかくとして)行動を起こしたから、翌日の非常戒厳解除につながったのだろう。「国家の極限状況」を国民たちの力で脱したのだ。
国家は、物理的強制力(「暴力」と言い換えてもいい)を独占し自らの管理下に置くことによって秩序を保つ権力装置だ。その物理的強制力とは、簡単にいえば警察や軍隊を指す。憲法が(一部)停止される戒厳状態においては、物理的強制力が物を言うことになる。議会封鎖を試みる軍隊には、実力行使で対抗するしかないのだ(説得工作などもあろうが、軍隊側が聞き入れてくれる保証はどこにもないし、スピード勝負という局面もあるだろう)。当然ながら、そこに身を投じることには危険が予想されるが、議会前に集まった市民たちはその危険をものともしなかったのだ。どうすべきなのか、あまり考える時間もなかったことだろう(それこそが体制側の思惑でもある)。正直なところ僕はお隣の国があまり好きではないのだが、この点は本当にすごいと思ったのだ。
翻って、自分のこととして考えた場合、こういったことが自分の周囲に起こった場合、果たして自分はどうするだろうか。考える契機はいくらでもあるはずなのだ。歴史上の話でも、文学作品においても、本邦においても海外においても。まさに今回の隣国に起きたこともそうなのだ。自分の国の現行憲法にそのようなシステムがないから考えなくてもよいということでもない。自分なりに考えて準備しておくのも、無駄なことではないだろう。