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「週刊ウローク」 No.5 /////「あゆち思想」の源流

■ふたたび寝覚の里


 最初は確か東浜御殿の屏風絵が発見されたことから始まった。筆者は熱田の「紙の温度」という名の紙の専門店で展示されていると聞いて、さっそく訪ねたが、ちょうど展示期間切れでまた公開する予定だと聞いて楽しみにしていた。そうこうしているうちに徳川美術館の学芸員だった原史彦氏によって二〇二〇年(令和二年)、中日新聞紙上にて東浜御殿の詳細な見取り図が発見されたと報じられた。熱田周辺ではまちおこしになると、それ以来、大騒ぎ。筆者はさっそく原先生の講演会場にうかがった。講演の内容は、東浜御殿に使われた部材は、その後、江戸屋敷に使われているとか、明治以降、どうなったのかとか、具体的なお話が中心だった。筆者の関心はそこにはない。そもそも東浜御殿は寝覚の里という場所につくられた。つまり宮の渡しの海上につくられた。さらに配置図を見ると、隅櫓(すみやぐら)がつくられており、名は寝覚楼(ねざめろう)とある。講演会が終わって宴会の席で原先生に恐る恐る聞いた。義直公が三代将軍徳川家光公のための名古屋での宿泊場所としてつくられた。そういう話の前に尾張氏の初代・天火明命(あめのほあかりのみこと)の時代に話を振ると、その話には一切触れなかったし、参加者も期待はしていなかった。期待していたのは筆者ぐらいのものだろう。

■蓬莱が島


少し前になるが、二〇一八年(平成三〇年)名古屋市博物館で「海たび」展という催しがあった。そこに描かれていた古地図である。古墳時代の名古屋には「年魚市(あゆち)潟」という遠浅の入り海が広がっていた。熱田神宮の南側と氷上姉子神社の北側に位置するあたり。いまは都市部になってしまったが、あきらかにこのあたりが「年魚市(あゆち)潟」である。つまり寝覚の里なのだ。熱田神宮の古図として亀の背に島が乗っている絵がある。見たことがないだろうか。それが「蓬莱が島」である。

蓬莱が島
中日新聞より抜粋

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