写真家の終焉

写真のことを考えるときに、よく思い出す言葉があります。

メモをして、何度も読み返していたその文章をwebarchiveで読めることに最近になって気付きました。

エンドウミチオ氏のブログ『写真家の終焉について私が思う幾つかのこと』のエントリー「ダカフェ日記から学べること(3)」から引用します。

 私が写真を日常的に撮るようになって、だんだん強く思うようになったことがあります。写真は、撮れば撮るほど写真家の個性を引き出すわけではなく、むしろ一つの終焉に向かって写真家を押し出してゆくということです。 それはどんな終焉なのか。簡単に言うと、「私がシャッターを切っても、他の誰かがシャッターを切っても、同じ写真ができる」という、写真の原点であり、終着点です。言葉を換えるなら、すべての差異(=写真家の個性)を飲み込み、写真家を溺死させてしまう、写真の海です。

https://web.archive.org/web/20101130204126/http://d.hatena.ne.jp/photography/20100625/1277495153

この言葉と、ロラン・バルトの写真のノエマに関する文章。写真について考えるようになってから、この二つがずっと頭の中にあります。

「写真」はすべて存在証明書である。「写真」の本質は、そこに写っているものの存在を批准する点にある「写真」のノエマは単純であり、平凡である。深遠なところは少しもない。《それはかつてあった》ということだけである。「写真」の実践の場においては、逆にアマチュアこそ専門家の極致である。というのも、アマチュアのほうが「写真」のノエマの近くにいるからである。

花輪光訳、ロラン ・バルト『明るい部屋』