スナップ写真の行方(物語のない国で)—鬼海写真の3形式から
物語のない国でスナップ写真がどのような形式をとるかについて書く。鬼海弘雄の写真形式に触れながら。
鬼海弘雄の写真の3つの形式については、以前すこし書いた。
- 人物の肖像(@浅草寺、無背景)
- 場所の肖像(@東京、無人物)
- 海外スナップ(@海外、有背景、有人物)
この3つが、なぜこのような形になっているのかについて言及されているインタビューを読んだので、メモしておく。
ここで念頭にある「スナップ写真」は、たぶん、一枚の写真の中で物語が進行しているかのように見える写真のことだろうと思う(複数の独立した物語だと尚良い)。この種の写真で、私がまず想起するのはサム・エイベルの牛飼い達の写真だ。(丁寧な解説があるので読んで欲しい。)
おそらく、こういったスナップ写真は今の日本の街中を歩き回ってみてもなかなか撮れないだろう。(品のない言い方だが「撮れ高」があがらない。)
なぜなら、今の日本の街中に物語など転がっていないからだ。(「どこを見ても同じ顔」つまり無貌)
だから、鬼海は日本でスナップ写真を撮らなかった。(海外では撮った。)
そして、浅草寺で物語を持った「王族」がやって来るのを待ち、その場の背景は抜きで撮った。(無背景の人物の肖像)
そしてまた、「暮らしのざわめき」のある場所を探し巡って、人物無しで撮った。(無人物の場所の肖像)
…ということらしい。
では、今の日本で撮れるスナップ写真がどういうものかというと、それはTwitterやInstagramで「ストリートフォト」等を検索すればわかる。(「ストリートスナップ」は別の意味を持つ言葉になっている。)
出てくるのは、カラーやシェイプに着目した美しい写真で、人物は写っていないことが多い。写っているとしても、ロボットかマネキンのような無貌の人物………ではないだろうか。(「デザイン」や「イメージ」という言葉が指す絵に近いかもしれない。)
もちろん、肖像権侵害の懸念から、人が写り込むことを避けているということはあるだろう。
しかし、そこは本質ではないと思う。
なぜなら、無貌の人物(「同じ顔に見える」)の顔を肖像権侵害のリスクを負って撮影することにメリットはないからだ。(鑑賞者にとってもあまり意味はないだろう。勿論、被写体にとっては重大な意味がある。)
無貌の人物しかいない物語のない場所で伝統的スナップ写真を撮ろうとすれば、自ら物語を惹起して、それを撮るしかないのかもしれない。そんな物語は、無関係な人にとってはコンフリクトでしかないわけだけれども。(ここである出来事を想起する人もいるだろう。)
メモ
ダイアン・アーバスについても、ここまで語っているものは初めて読んだ。
個人的な事情
写真家・鬼海弘雄が亡くなった。2020年10月に。亡くなってもうすぐ1年が経とうとしている時期になってから、そのことを知り、自分のこの1年はそんなに忙しいものだったのかと不思議だった。ネットで関連記事を探して、上記のインタビューを読んだ。