写真集をめくる、冒険 — 鬼海弘雄『ぺるそな』

写真集をめくる

たとえばグラフや図表など、言葉で表されていないものを「読む」といった場合、その奥や裏に隠れた意味や意図を汲み取るというニュアンスがある。表面から内面を読むには、ある程度の知識、経験、能力が要求される。写真もそうだ。

わたしは写真集を「読む」ことはできない。ただ写真集をめくって、写真をながめるだけだ。

写真集をめくりながら、写真をながめたり、目を逸らしたり、あるいは写真集を閉じ、またしばらくしてから写真集をひらいてみたりする。そうしてあたまにうかんだことについて、あらわせたら…とは思う。

冒険 — 『ぺるそな』

書店で平積みになっている鬼海弘雄の『PERSONA』(2003)をめくって見たとき、これはとんでもないものだと直感した。が、当時の金銭感覚で購入できるものではなかった。そもそも、写真集を購入・所有するという習慣がなかった。(書籍はやたらに購入していた。)

最近あらためて鬼海の活動についてネットで検索してみると、『PERSONA』の続刊が出版されており、しかも「最終章」と銘打たれている。読まなければ、と思った。

そして、入手困難なものもあったが、写真集、エッセイをある程度はまとめて見る・読むことができた。

PERSONAシリーズの写真はどれも魅力的で、なかでも『ぺるそな』の「兵庫から家族旅行で来たという中学生 2002」が最も印象に残った。自分に似ていたからだ。

意外なところで自分の顔と出会ったことが愉快だった。眼鏡の反射でよくわからないところはあるが、下唇の感じもよく似ている。カメラをまっすぐ見ずに、すこし斜めを向いている。人付き合いが苦手そうだ。そこも似ている。

ある種の写真が私におよぼす魅力を(とりあえず)言い表わすとしたら、もっとも適切な語は、冒険(= 不意にやって来るもの)という語であると私には思われた。

ロラン・バルト『明るい部屋』

奇妙なことだが、今までに撮られた自分のどの写真よりも似ている。この写真に付箋をつけて、何度も見返した。写真集を閉じているときも、ふとしたきっかけでこの写真を思い出す。あたまのなかの自己イメージが、この写真で上書きされていく…。

けれども、ある時ふと気が付いた。

腕を伸ばして広角レンズでこどもと一緒に写る写真の自分と「兵庫から来たという中学生」とは、すこしちがう。これは、かつてのペルソナ。結婚してこどもができる前の自分の顔だった。