『明るい部屋』から(写真という形式と写真表現)

ロラン ・バルトの『明るい部屋』を読んだ。

写真と俳句の類似について触れた箇所があり、「俳句という形式」について書かれた次の文章を思い出した。というのは、「写真(という形式による)表現」や「(写真)作品」について、最近考えることがあったからだ。

作句技術の話に入る前に、本章では、俳句という形式について私が考えてきたことを書いておく。それは、ひとことでいえば、「俳句は、自分の言いたいことを言うものじゃない」ということ。このことをわかっていないと、いくら技術論をやってもムダだと思う。この本で言いたい最大のことは、「言いたいことがあるなら俳句なんて書くな」ということだ。あなたの俳句の最大の敵は、あなたの「言いたいこと」なのだ。俳句は言いたいことを言うための形式ではないし、まして「言わなければならないこと」を俳句にするなどというのは欺瞞もいいところである。 

千野帽子『俳句いきなり入門』

では、写真という形式はどうなのだろうか?という疑問を、後でまた考えるためのメモとして残しておく。

以下では、写真を続けることの助けになるよう引用を残す。引用は全て花輪光訳、ロラン ・バルトの『明るい部屋』から。

「写真」はすべて存在証明書である。

「写真」の本質は、そこに写っているものの存在を批准する点にある

然り。然り。

難しい言葉はわからない。「ノエマ」というのも「何か」を指す記号(文字列)として認識しているだけだが、最も印象に残った文章で使われているので、一応、次に引いておく。

「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは = かつて = あった》、あるいは「手に負えないもの」である。

「写真」のノエマは単純であり、平凡である。深遠なところは少しもない。《それはかつてあった》ということだけである。

そして、最後。

「写真」の実践の場においては、逆にアマチュアこそ専門家の極致である。というのも、アマチュアのほうが「写真」のノエマの近くにいるからである。

撮ることを続けていけば良い。これを読んで、そう思った。