写真の持つこの力を頼りにして、撮ることを続けていこう。
最近また写真のことを考えるようになり、深瀬昌久の写真のことを思い出していた。
東京都写真美術館のサルガド展(ESSAYS)を見た頃だから、2003年〜2004年のことだと思う。地元の図書館にあった岩波書店の「日本の写真家」シリーズで写真家・深瀬昌久を知り、写真美術館の図書室に2日ほど通って写真集を渉猟した。
以来、写真のことを考えるときは深瀬の写真(とりわけ『父の記憶』と『家族』)のことを思うのだが、まとまった写真を見直すことはしていなかった。
今回、写真のことを考えるにあたり、図書室で見た時の印象を確かめたく、『MASAHISA FUKASE』(監修/本文:トモ・コスガ)を読んだ。(この本の中でぼくが好きな写真は、森山、中平、深瀬の3人の写真家を尾仲浩二が撮影した「写真家の中平卓馬と『ベロベロ』を撮影する深瀬」)
写真の印象は変わっていなかった。写真が写真家を圧倒している。『父の記憶』や『家族』の写真は化物のように強い。『ブクブク』では、写真が写真家を嗤う声が聞こえるかのようだ。(そう感じるのは、深瀬の経歴を知っているからだろうか。)
写真の持つこの力を頼りにして、撮ることを続けていこう。写真にはこのような力があるのだから、撮り続けることが最も重要で、撮り続けさえすればそれで良い。そう言っていい。心配ない。そのように思った。