写真との対話、弱くある写真 — 鬼海弘雄のふたつの肖像(人物と場所)

鬼海弘雄の写真集とエッセイを最近になってやっとまとめて見る・読むことができた。

鬼海は3つの連作に取り組んでいる。

・人物の肖像
・場所の肖像
・海外スナップ

ひとつは、浅草寺の壁を背景に人物を撮影する『PERSONA』シリーズで「人物の肖像」。もう一つは、東京の風景を撮ったシリーズで「場所の肖像」とでもいうべきもの。また、海外でのスナップもある。(これついては、ひとまず措く。)

写真集だけを見ていた時、「人物の肖像」と「場所の肖像」とでは、同じ写真家の作品として、どうにもバランスが取れないと感じた。自分の無明を棚に上げて率直にいえば、「場所の肖像」にそれほどの魅力を感じられなかった。

エッセイを読んで、人物と場所、ふたつの「肖像」の連作のベースには、ひとつの共通した考えがあることを知り、自分の中でだいぶバランスがとれてきた。

ポートレイトが瞬時の表情ではなく個性や人柄などの来し方まで表すことが出来るなら、町の佇まいを撮って、そこに流れる暮らしのざわめきで「場所のポートレイト」を撮れないだろうかとおもうようになった。肖像では背景を無地にしている。「場所のポートレイト」でも、画面に人を入れないで撮ろうと考えた。肖像は、実景を背景にするとその場その時の一瞬の表情がまさりすぎて説明的になり過ぎる。町の風景でも、人の姿を入れると同じことが起こるだろうと考えた。— 鬼海弘雄『靴底の減りかた』

つまり、写真が説明的になりすぎることを避けるため、「人物の肖像」では背景を無地にし、「場所の肖像」では人物を排除しているという。

なぜ説明的になりすぎることを避けるのかというと、写真の持つ情報が多いと、鑑賞者の想像力のはたらきを妨げてしまうからだ。

あまりにも強い情報のかたまった風景は、写真にするのがむずかしい。強い写真は見る側に一方的に意味を注ぎ込み、見返すために必要な想像力を限定するからだろう。なるべくならキッチュは撮らないことにしているので、カメラを向けるのをあきらめた— 鬼海弘雄『東京夢譚』(第十三話 アルミの急須と愛の証)

つまり、鬼海の写真では、まず、情報量を抑えることで鑑賞者の想像力をはたらかせる余地をつくる。(いわば「弱い写真」が目指されている。あるいは「弱くある写真」というのか。)

次に、その余地の中で鑑賞者の想像力が十分に駆動されることで、鑑賞者と写真との対話が生まれる。

このようにして「対話の構造」が作り出されている。

写真には、観る人の想像力をうながし尽きない対話の構造があるのかもしれない— 鬼海弘雄『PERSONA 最終章』

鬼海の「人物の肖像」は「何度見ても見飽きない」と評されるが、これは、鑑賞者と写真との尽きることのない対話から生じる印象だろう。(逆に、鑑賞者にとって情報が多すぎたり足りなかったりして想像力が十分にはたらかず、結果、対話が生じなければ、あまりおもしろくない写真になる。)

鬼海が写真家を志すきっかけとなった写真集(おそらくダイアン・アーバスのポートレイト集)について、鬼海も同様に評していることから、鑑賞者と対話する写真というものが、ひとつ目指すべき写真としてあったのだろうと思う。

写真なのに、繰り返して捲っても一向に見飽きないのがふしぎだった。異郷の無名の人たちが、人生模様を直に話しかけてくるからだ。しかも、写真が鏡になって、自分の影さえも写っているような気もした。— 鬼海弘雄『靴底の減りかた』

ダイアン・アーバスのスタイルから発して鬼海のそれに至る思考・試行はどのようなものだったのだろうか。手に余る疑問だが、記しておく。

また、カラーではなくモノクロであること、写真に付されるキャプションの情報量、海外での写真には人物とともに実景も写されていること等についても、鑑賞者と写真との対話を生む「弱い写真」、「弱くある写真」の観点から説明できるように思うが、作文はここで終わりにする。