写真を撮るとき — 畠山直哉、大竹昭子『出来事と写真』、畠山直哉『話す写真』

こどもの写真で、祖父母が喜ぶような写真とは別に、撮っておきたい写真がある。

でも、その時、その場に、自分がどのような態度でいれば良いのか、今一つわからない。

カメラを持って、ファインダーを覗いて、シャッターを切る等の、写真を撮るための身体の動作が、目の前の出来事にそぐわないというか。写真を撮ることの意味と、その撮るための具体的な行為が結び付かないというか。赤の女王が言う「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」のように、目的と行為が結びつかないように感じてしまう。

それで、よくわからないまま、撮っている。

ではどうして写真を撮るのか? 率直に言えば、僕は誰かにその写真を見せたいというより、誰かを超えた何者かに、この出来事全体を報告したくて写真を撮っているのです。その「何者か」が、どんなものかははっきりとは言えませんが、僕が構図や色彩や光線に気を使い、できるだけ明瞭な写真を作らなければと思うとき、確かに僕は、その「何者か」が、後で困惑しないようにとの思いから、そうしているのです。

畠山直哉、大竹昭子『出来事と写真』(アサヒカメラの震災特集号(2011.9)に掲載された畠山の文章)

「記録」は常に未来からの視線を前提としている。そこに見える光景が過去であっても、写真自体は延々と未来に運ばれる舟のようなものだ。いっそ「記録」は過去ではなく、未来に属していると考えたらどうだろう。そう考えなければ、シャッターを切る指先に、いつも希望が込められてしまうことの理由がわからなくなる。

畠山直哉『話す写真』

本を読んだのでメモしておく。(強調は引用者)