血は流れていなかった。
共同キッチンの隅。「配給品」と書きなぐられた、底の見え始めた段ボールから銀色のパウチに入ったゼリー飲料を取り出した。
カチリ。蓋を回し口に咥え、袋を軽く押せば、何とも言えない独特の味が口の中に広がる。もはや慣れた味だ。しかし何度飲もうとこれを美味しく感じることはない。眉間に力が入っていくのを感じた。
そもそもこれは嗜好品として作られたわけではないのだ——そう考えて精神を落ち着かせる。いかに安価で効率的にエネルギーを補給するか。それの研究により生み出された科学の結晶の一つだ。度重なる戦争。それにより物資が不足し、物価がひどく上昇したこの世界では、様々なものが代用品になり配給制となっていた。
しかしながら、味にさえ目を瞑ってしまえば素晴らしいのだ。さすがに国が作っただけある。一食に置き換えられる高エネルギーと、ゼリーのためにすぐに補給できる手軽さ、消化の速さ。まるで機械を動かす燃料のように、私たちの体に力を与えてくれる。唯一の不満点は味だ。本当に味さえなんとかなれば——。
以前、同じ隊の人間に尋ねたことがある。味について何も感じないのか、と。返ってくる言葉は様々で、しかし大半が「エネルギー補給に、味は関係ないだろう」という素っ気ないものだった。コーヒーやら紅茶やらを好むメンバーが多いのに、そんなことを言うなんて、と疑問を持ったことを覚えている。
……共感してくれたのは彼だけだ。もう脱隊してしまった彼だけ。
幾度となく繰り返したため息と共に空になった袋をゴミ箱に入れた。
自室に戻ろうとして、玄関に細長くて白い何かが置いてあるのを見つけた。誰かの私物だろうか? 勝手に見るのは良くないと私の良心が訴えかけるも、好奇心には勝てない。近づけば、それは梱包材に包まれた、水色に鋭く光る剣だった。1m強あるそれは、持ち上げてみると不思議と軽い。なぜこんなものが……訝しみつつ興奮を抑えきれない私の目が、無造作に貼られたメモ用紙を捉えた。
ダイヤの剣
試作品の廃棄物
鋭いため注意
あぁ、なるほど。心がすっと冷静になるのを感じた。「いつもの」だ。
また送られてきたのか。手元のそれを見つめる。剣だなんて、武器庫のどこに置けばいいのだろう? そもそもスペースはあるだろうか、ここの者はみんな片付けが苦手なのだ。倉庫の惨状を思い出してため息を吐くも、それはこの押し付けられたものに対してではない。よくあることなのだ。もうだいぶ慣れてしまった、今更何も思わなくなっていた。
上の人間にとって、ここはゴミ箱らしい。
使えない兵器、使えない兵士。そういうものの「ゴミ箱」だ。私もかつては別の隊にいたのだが、ここに送られてきてしまった。
使えない存在が使えないものを消費して敵を殺してくれる、ちょうどいいところ――上の人間は、そうとでも考えているのだろうか。
「いらない」側からしてみれば、溜まったもんじゃない。我々を何だと思っているのだろうか。しかし19歳までの市民が戦場に駆り立てられるこの国では、この立場に甘んずるしかない。ヒエラルキーの一番下である我々は、逆らうことなどできないのである。
武器だってお粗末なものだ。私たちに与えられたのは、随分前に危険すぎると頓挫した計画の「余り」である特殊な液体と、それ専用の武器。触れるだけで人体を溶かすそれを、水鉄砲に詰めて使うのだ。水と間違えないよう、インクとして使えるぐらい強い色がつけられていて、さながらおもちゃのようである。
こんなふざけた武器で本当に戦えるのだろうか。最初はそんな疑念があったが、いざ使ってみると、そのふざけた武器で人が簡単に死んでいくのである。だがその威力に恐れたのは私と彼だけだった。殺戮を好まない彼も、大人しい彼女も、感情の読めないあの子も、みんな。この兵器に対し、恐れることはなく。それどころか、興奮しているのがわかった。
目の前の人間だったものをグズグズに溶かしながら、次の戦場の話を喜々として話す彼らは、人間に見えなかった。
だが、あぁ! 私も所詮彼らと同じだったのだ。
それはそれは美しかった。青、紫、緑、黄、桃、橙……色とりどりの液体が舞い、敵が朽ちてゆく戦場。それはまるでキャンバスのよう。私たちは絵の具、人間を塗りつぶしていく。何が起きているのかわからず逃げ惑う、愚かな人間たち。
楽しい! 楽しい! 楽しい! いつの間にか口は弧を描いていた。アドレナリンが放出されるのを感じる。自然と笑い声が漏れていた。
気が付いたときには、辺りに人間は残っていなかった。地面に敵の軍服が落ちているのみである。
この液体は人体のすべてを溶かすが、人体以外のものに対しては無害なのだ。
血が流れることはなかった。心も痛くなかった。
少しも減っていないインクタンクを抱えた彼の手は、震えていた。
それから私たちは無敗だった。なんせ危険すぎると中止になった研究で生まれた液体だ。その効果は素晴らしい。
また、高い揮発性を持っていた。大気に触れてから5分もすれば揮発し始める。誰もそれを解析することはできない。
またそれを振るう者たちもまったく油断できない。人間離れした反応速度で攻撃を避け、人間を消し去る液体を躊躇なく使ってくる。
向こうからしてみれば、我々は対処しようのない恐ろしい殺戮兵器だろう。
――だからこそ、彼は我々から離れたのだ。
少し前にいなくなった彼を思い出す。この狂った殺戮兵器しかいなくなった空間で、唯一の人間は彼だけだった。殺すことを忌避し、己の死を恐れていたのは。
全身に包帯が巻かれ、傷つき、ボロボロになった姿で彼は嗤った。
「ここにいるのはみんな人間じゃなかった。ずっと忘れていた。俺はお前らが同じ存在であると思い込んでいたが、どうやら間違いだったようだな。
もうここにはいられない。お前らの錆びついた刃はもう磨かれてしまった。いつその刃が俺に対しても振るわれるのか恐ろしい。
じゃあなキチガイロボットども。あわよくば二度と会いませんように。」
そして、我々の前から姿を消した。
私はその言葉の意味をすべて理解することはできなかった。理解を拒んでいたのかもしれない。彼がなぜ消えたのか、その意味を知りたくなかったのかもしれない。
だが、私たちがこう(・・)なってしまったからなのだと、理解した。
私は思った。人間味を取り戻さねばならない。初めて武器を握ったときの、あの感情を取り戻さねばならない。人を殺す痛みを、頬を掠める死の感覚を。戦場に呑まれてはならない。
だけど、あぁ。ダメだった。
私は再び戦いに明け暮れた。
それは何度目かの戦場。前回の出撃で半分以上を占領した続き。
油断していたわけではない。警戒は怠らなかった筈だ。右から走ってくる敵をしっかりと捉えていた。特攻してくる愚かな人間に対し、愛用の二丁銃の銃口を向けていた。その小さなナイフで何をする気なのだと嘲笑う。
でも、違ったのだ。それの武器はナイフではなく――その体に巻きつけた、爆弾!
逃げなくては、そう思った瞬間に目の前がひどく明るくなり――そして、「強制終了(・・・・)」という脳内に広がる言葉と共に、ブラックアウトした。
目が覚めるとそこは暗闇だった。
どこだ、ここは。頭のみを動かし辺りを見渡すと、ここが見慣れた場所であることに気づく。――自室だ。
なぜここに……私はさっきまで戦場にいたはずでは、あれは夢だったのか? 瞬きする度、様々な考えが脳内を駆け巡る。いや違う、あのとき感じた光は夢ではない。私は気絶したのだろうか、仲間の誰かが運んできてくれたのだろうか。
次第に、考えても仕方ない、とりあえず身を起こそうという思考に至った。そもそも部屋が暗いのだ。ドア横の照明のスイッチを押そうと起き上がると、一階で誰かが話している声が聞こえた。その騒ぎようから見るに、5〜6人はいるだろう。
私も参加しよう。何か情報が得られるかもしれない。照明をつけるのをやめ、階段を降りることにする。パタパタという音が聞こえたのか、同じ隊のメンバーが一階から顔を見せた。
「ヘタルさん!」
私の名前を呼び、階段を上がってきた。
「再起動終わったんだね! 大丈夫?」
屈託のない笑顔をこちらに向ける。
「あ、あぁ、うん。さっき目が覚めたんだよ。」
「ちょっと破損があるから、明日メンテナンスに持ってかないとね」
屈託のない笑顔をこちらに向ける。
「そ……そうだね、病院に行くわ」
「エネルギー補給しておいた方がいいよ。寝てたからある程度はバッテリー充電されただろうけど……」
屈託のない笑顔をこちらに向ける。
「……うん、ゆっくり休むね。
ところで、なぜ私は気絶したの?」
「うーん……小規模な電磁パルス攻撃らしいよ! びっくりしちゃうよね。わたしは大丈夫だったけど、近くにいたみんな強制終了しちゃった。」
屈託のない笑顔をこちらに向ける。
「あのさ、」
「どうしたの?」
屈託のない笑顔をこちらに向ける。
「電波系にシフトチェンジしたの? 私たち、人間じゃない。そんな、まるで機械みたいな……」
「何言ってるの?」
屈託のない笑顔をこちらに向ける。
「わたしたちは、ロボットだよ。」
屈託のない笑顔をこちらに向ける。
隣の彼女が恐ろしくなって居間に走った。静止の声は聞かない。
そこにいるのは変わりのないいつものメンバー。その姿にひどく安心し、先程のあの子の発言を馬鹿にしてやろうと思い口を開きかけて――いや違う! ソファーに座る金髪の彼女、その腕はボロボロになっている。皮膚は溶け、そこから見えるのは血ではなく、機械の――。
「あ、起きたんやね」
おはよう、自分もやられてもうたわ。困ったように笑う、笑う、笑う。ボロボロの腕を触る彼女は、痛がる様子がまったく見えない。よく見れば、周りにいたメンバー皆、どこかしらに異常(・・)があった。
それなのに、あぁ。誰も何も変わらない。変わらぬ談笑をしている。
「明日メンテナンスの予約取ったから、みんなでまとめて行こうって話なんだよね」
茶髪の彼女がこちらに話を振った。私に向けてだ。つまりは、私も、彼らのように――。
目の前が真っ白になって、気づけば走り出していた。ドアを蹴破る。外は雨が降っていた。
背中からみんなの戸惑いと静止の声が聞こえる。知らない、知らない、知らない! 誰が止まれる? 誰があの場所に戻れる? あの狂った空間に!
その全身を雨に濡らし走り続ける。しかし体は冷めるどころかひどく熱くなる。だんだん動きが鈍くなっていく。やがて全身が思うように動かなくなって、小さな段差につまずいて顔から転んだ。びしゃり、水溜まりに顔をつけた。
痛い!……痛い? 痛みはこなかった。顔から盛大に転んだのにだ。全身を地面に打ち付けたのに。強い衝撃を受けたのみで、痛みはない。血も流れていない。
起き上がろうとして、そんな力が残されていないことに気がついた。だが腕の力のみで体を起こし――水溜まりの自分と目が合った。
そこにいた自分は、――。
顔の半分が爛れていた。皮膚の向こう側に、人間とは思えぬ基盤が見えた。
血は流れていなかった。血は通っていなかった。
あぁ、そうかい。そうなんだな。
私も、そうだったのか。
あまりの熱に耐えきれず目を閉じた。
脳内に、「ERROR」という文字が浮かんだ。
“……おい、こいつか?”
“ピンクの髪に瞳のアクセサリーパーツ。女性体。……うん、容姿は一致しているな。損傷しているのも報告どおりだ。
あぁ、首元を見てくれ。個体識別番号があるはずだ。”
“【HT-L205】、の……【01122】か。
コイツで間違いなさそうだな。まったく、手間かかせやがって。ロボット兵が脱走だなんて、前代未聞だぞ? 配置される前にプログラミングされるだろうに。”
“噂によると、イレギュラー個体らしい。俺も詳しくは知らないが、何度やり直しても自分をロボットだと学習できなかったらしいんだ。そこで、【ゴミ箱】行きになったらしい。”
“はぁ、なるほどな。……コイツはどうなるんだ? 廃棄か? ロボット兵は高価だから再教育になるんだろうか――できたらの話だが。”
“さぁね。まぁ少なくともあの隊は解散だろうな。問題を起こしたし、それに――人間の兵士がもういないらしい。少し前に最後の一人が脱隊したんだと。ロボット兵しかいない隊なんてありえないからな。”
“へぇ、可哀想だな。返って来たら自分の隊が無くなってるのか。”
“じゃあお前貰ってやれば? 顔はかわいいぞ。“
“……冗談やめてくれよ、別に興味ないわ、ロボットのことなんて。”
“ははは!俺もだわ。所詮、疑似人格を持った殺戮兵器だからな。”
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