私の歌舞伎愛~清姫はナウシカなのだ~
歌舞伎が好きだ。
初めて見に行った時は「訳がわからん……きれいだけど」と思っていた。
でも、ある頃、ちょっと特殊な見方をするようになって、そこから俄然おもしろくなった。
輪廻的な世界観で歌舞伎を見る
私なりの、ちょっとおかしな歌舞伎の見方、それは、輪廻転生システムを前提として舞台を見ること、「あのキャラの前世って何だろう?」という想像をしながら物語を楽しむことだ。
「あの男のセリフ、遊女への嫉妬バリバリで、男同士の会話に聞こえないw前世では隣の彼の奥さんか何かだった?」
とか
「ひょっとしてあのキャラ、義経千本桜のあいつの転生後?ってことは、今世では念願叶ったんだ、よかったねぇ」
とか。
そんなことを考えながら見てると、ホントおもしろい。
そして、歌舞伎の世界は舞台の上だけに留まらないのが、恐ろしくも趣き深いところ。
市川中車が、父親から勘当され拗ねる弟に父の真意を伝える役だったり。
(それって、今の自分から昔の自分へのメッセージ!?)
市川海老蔵が、奥さんを亡くされた翌月に舞台上でやるのが自分の奥さんを殺す役だったり。
(なんという因果な……)
その月は一人三役で、神さまになってお子さんを抱えて宙乗りをしたり。
(物語上は全然違うけど「お母さんはお星さまになったんだよ」的なシーンにしか見えない)
ただ見てるだけで、物語のキャラクターの人生に入り込んでしまったような、役者さんのリアル人生に入り込んでしまったような、物語の作者の人生に入り込んでしまったような、江戸時代にこれを見ていたお客さんの人生に入り込んでしまったような、自分の人生に入り込まれてしまったような!?……今の自分がどこにいるのか、わからなくなってしまう。
しかし、不思議なことに、いくつもの時代や時間軸を同時に体験してる気分にもなる。
それが、私にとっての歌舞伎ならではのおもしろさだ。
そもそも、歌舞伎の演目の多くは時代物、つまり江戸時代の“なんちゃって時代劇”なので、いろんな時代性を感じやすい。(別ジャンルで江戸当時のトレンディドラマ、世話物もある)
ちょっと乱暴に言うと、時代劇風ファンタジー。
現代人にとっての水戸黄門とか、るろうに剣心とか、刀剣乱舞みたいなもの。(言い過ぎ?)
現代と同じく、昔の日本人もその手のエンタメが大好物だったんだろうか?
そこはちょっと事情が違う。
彼らには“時代劇”にしなきゃいけない、もう少し切実な理由があった。
表現の不自由をすり抜けろー態のいい言い訳 "時代劇"
最近、表現の不自由が話題だが、身分社会である江戸時代の不自由さは、今とは比べ物にならない。(たぶん)
芝居でうっかり政府を皮肉っちゃったりすると、よければ興行中止、悪ければ江戸追放。
江戸幕府という政府は、庶民の芝居というものがお嫌いだったらしい。
少し寄り道しながら話を進めるけれど、江戸時代の川柳に
「日に千両、鼻の上下、へその下」
というものがあり、これは、江戸で一日に千両の取引がある巨大マーケットが三か所あるという意味。
鼻の上=目で、目で楽しむ芝居町のこと。
鼻の下は口を楽しませる魚河岸、へその下は性器で、つまり吉原遊郭。
この三大マーケットのうち、築地魚河岸と吉原は、どちらかというと、幕府自ら規制も保護もするというスタンスだったのに対し、芝居についてはただ鬱陶しがっていたきらいがあって、役者の人気があまりに凄いから、幕府がその影響力を恐れたのだ等と言われる。
それが本当かどうかはわからないけれど、お役人たちの「何か揉め事があれば、それを口実にしょっぴいてやる!」的なプレッシャーは、芝居小屋の人々にはあったんだろう。
が、不自由さは創作活動に素敵な刺激を与えることもある。
役者や劇作家は、芝居小屋をお客さんでいっぱいにしたいから、当然、当時の流行や時事ネタに敏感になる。
お客を呼ぶには、江戸の町人が共感しやすいテーマを使うのが一番だ。
しかし、不動の人気を誇る一大テーマのひとつ、お上への不平不満。
これは非常にリスキーなネタなのだ。
みんなが日頃思っていること、例えば
「あのサムライって、威張ってるだけでマジ無能」とか「なんで相手が武士だってだけで、こんな筋の通らない暴力に耐えなきゃなんねえんだ?」なんてことを、実名で正直にそのまんま芝居に載せてしまったら、初日は拍手喝采でも、数日のうちに全員がお縄になってしまうかもしれない。
(サムライや武士を”上司”に、お縄を”クビ”に読み替えていただくと、現代にも通じちゃう?)
「超ヒット芝居を打ちたい! でも捕まりたくない!」
そんな思いが形になったのが、“時代劇風”創作ファンタジーなのだ。
脚本には時事ネタを盛り込むが、時代劇だと言い訳して逃げる。
つまり、
「これは鎌倉時代のお話。最近あった例の事件のことじゃないんですよ~」
的な逃げだ。
長年の超人気作「仮名手本忠臣蔵」がまさしくこの手を使っている。
江戸っ子の多くは赤穂浪士リスペクトだから、彼らの「こうだったらいいな」的ドリームを芝居にすれば大ヒットの予感。
でも、赤穂浪士は正式に裁かれて死刑になったのだ。
赤穂浪士に同情を寄せるような芝居は、幕府のくだした結論に歯向かうものと見なされる。
もし「赤穂事件の真実~四十七士よ、永遠に~」的な芝居を作ってしまえば、あれよあれよという間に捕まってしまうだろう。
郵便不正事件と違って、江戸時代に弁護士はいない。
権力を相手取って勝てる裁判なんて江戸には無いのだ。
そんなわけで。
「むかーしむかし、鎌倉幕府の頃、あるところに……」
的な“なんちゃって時代劇”として、時事ネタのオマージュをやる。
今と違って考古学なんてものも無いから、衣装や舞台セットは江戸時代当時のままだったりする。
水戸黄門のテレビ放映でも、時々「ナイスだ!八兵衛」みたいなセリフがあったというから、現代も似たようなものかもしれないが、よくよく見れば、その時代設定ではあり得ない言葉やら服装でも、観客が感情移入できればそれでいいのだ。
歌舞伎の中の三つの時間
そんな背景から、歌舞伎には”なんちゃって時代劇“な演目がとても多い。
そして、それが、歌舞伎特有のおもしろい時間軸を構成する。
私たちが歌舞伎を見に行く時、そこには少なくとも三つの時間が存在する。
①物語の中の時代設定(忠臣蔵なら、鎌倉時代)
②物語が作られた時代(忠臣蔵なら、江戸時代)
③上演されている時代(現代)
演目によっては、この①がさらに複雑に組まれるものがある。
わかりやすい例は、能を原作にした演目だ。(複雑すぎて十分わかりにくいけど)
まず、能のストーリーには基本ラインがある。
「幽霊が、通りがかりのお坊さんに『なぜ自分は幽霊になってここに留まっているのか』を話して、気が済んだら成仏する」というものだ。
これを歌舞伎にすると、上の三つの時間がもうちょっと複雑になる。
①物語の時代設定で言えば、a.主人公が幽霊として出てきた時代と、b.主人公がまだ生きていた頃(回想)の二つの時間が交錯する。
千年の時を超える清姫ー平安、室町、江戸、現代
タイトルに挙げた「清姫」を使って、整理してみよう。
ちなみに、清姫のストーリーで一番スタンダードな演目は「京鹿子娘道成寺」だけど、白拍子が二人いる二人道成寺とか、もっと増えて五人道成寺とか、男女のペアで踊る男女道成寺とか、バリエーションはいろいろ。
能の「道成寺」をベースにしていて、原作の能も安珍・清姫伝説を元に創作されたもの。
諸説あるけど、ざっくりまとめると、次の二つの伝説が元になっている。
ストーカー蛇女伝説(平安中期ごろ):
清姫という娘が安珍というお坊さんに一目ぼれ。だが、安珍は告白を断って逃亡。清姫は蛇になって追いかけ、道成寺の鐘に隠れていた安珍を炎の蛇が鐘ごと焼き殺してしまう。
鐘に祟る怨霊伝説(室町時代?):
清姫の死後、かーなーり経ってから、道成寺に新しい鐘を釣ろうとしたところ、妙な白拍子が来て鐘への恨みを歌いながら踊る。なんと、それは清姫の怨霊だった。
さて、歌舞伎の道成寺では、こんな時間構成になる。
①物語の中の時代設定
a.道成寺で新しい鐘の供養が行われている時:室町時代?
b.清姫が恨みを残して死んだ時:平安時代
②物語が作られた時代
a.原作の能:室町時代
b.改作の歌舞伎:江戸時代中期
③上演されている時代(現代)
といった感じだ。
舞台上では全て、江戸っぽい衣装と舞台装置で話が進むけれど、清姫の幽霊の生前のことを考えれば、初めて作られた江戸時代でも800年ぐらい、現代で上演すると1000年以上の開きのある時間軸を、ひとつの舞台で同時に経験することになる。
私が初めて見た歌舞伎、「訳がわからん……きれいだけど」と思ったのは、まさしくこの道成寺物だった。
あれから十年ぐらい経って、好きになって、いろいろ調べてやっとここまで味わえるようになったけれど、今思えばあの「訳がわからん……」という感覚も正しかったんだなぁと思う。
訳はわからないけれど、わからないなりのディープインパクトがあった。
だから、図書館でたまたま目に入った「清姫は語る」という背表紙に惹かれ、学校で教わった以外の歴史があることを知り、言葉で記録される以前の頃の歴史が気になり始めた。
別の流れで、旅行で熊野へ行くことになり、熊野にハマるうちに、清姫の流れと熊野の流れが縒り合わさって、今の自分がある。
もうひとつの流れ、熊野については、近いうちに熊野比丘尼に関する文章を書こうと思うけれど、それはまた別のお話ということで。(熊野についてのご参考:自分アップデートセンター)
歌舞伎以前の事ー小学校でナウシカに出会う
歌舞伎や熊野に出会う前、私の世界観はアニメと漫画で作られていた。
アニメに一番ハマってたのは中学時代。
新世紀エヴァンゲリオンのテレビ放映をリアルタイムで見た世代で、見ていた時、主人公と同じ14歳だったから、架空の話なのに他人事とは思えなくて毎週ドキドキしながら見ていた。
ああ~、懐かしい。
さらに遡ると、小学生の頃、金曜ロードショーで放映された「となりのトトロ」や「風の谷のナウシカ」を、録画して何度も何度も繰り返し見ていた。
そんな感じでアニメは身近だったが、漫画を手にするようになったのは学校の友だちよりだいぶ遅かった気がする。
家では母がなかなか許してくれず、漫画を読めるのは学校でだけだった。
とはいえ、学校なので。
私の通っていた小学校に置いてある漫画は三択。
①マンガ日本の歴史
②はだしのゲン
③風の谷のナウシカ
当然③に手を伸ばしたのだが、2巻まで読んだところで、びっくりした。
小学校に置いてあったのは4巻まで。なのに。
(2巻の途中で、もう映画のラストシーン!?)
4巻まで読み進めてみたけれど、ストーリーは一向に終わる気配がない。
それでも緻密に作られた近未来の世界設定とか、諸々がとても好きになって、結局その先は自分で買い集めることにした。ちなみに全7巻。
世界観という意味では、ものすごい衝撃を受けた、ユパのセリフがある。
「ウマは昔は哺乳類だったそうだ」
読みながら、頭が一気に「!?」「???」という感じになった。
(哺乳類、“だった”???)
世界大戦で人類の文明が後退したあとの話だということはわかってたけど、このセリフで、私の中でナウシカの生きる世界の緻密さがぐっと増した。
アニメだけ見ていた頃は、素敵な黄昏の世界くらいに思っていた。
(子どもながら、お花畑的な見方でちょっと苦笑いしたくなるけど)
それが、グロい遺伝子工学の果てに、頭のデカいダチョウみたいなイキモノが「馬」として造られた世界だったと理解できた時は、ちょっと気持ち悪くなった。
(でも、この気持ち悪さは、このお話がリアルだからこそ感じるんだ)
そう思った時、宮崎駿を心から尊敬する気持ちになった。
今も、重さとか匂いとか命とか、そういう見えないものをAnimateするアニメーターとして、とても尊敬している。
アニメーターの元々の意味は、Anima(生命力、魂)を吹き込む人。
宮崎駿という本物のアニメーターが心血そそいで作った、この漫画版「風の谷のナウシカ」が、おそらく小・中・高を通して私の世界観の基盤だった。
姫だけど、お姫さまではない
「ナウシカ」のインパクトは、いろいろ面白い方向へ飛んだ。
ギリシャ神話の「オデュッセイア」も読んだし「虫めづる姫君」も読んだ。
この二つがナウシカの人物像が作られたきっかけだと漫画のあとがきに書いてあったからだ。
でも、今、改めて考えてみると、王女ナウシカアも虫めづる姫君も、風の谷のナウシカとは印象が違う。
ナウシカの人柄をイメージする時、私が必ず思い浮かべるシーンがある。
隣国がトルメキア帝国に滅ぼされたという緊急事態を伝えようと、ナウシカが駆け込んで来た時、父であるジルがナウシカを叱責する場面だ。
「まて!!そのざまはなんだ、ナウシカ」
「族長がそのようにとりみだしてどうするのだ」
「事が大きければ大きいほど、岩のように静かであれ」
「わかったら話すがよい」
ベッドから身体を起こすこともできない老人が、次代の族長となる娘に見せる厳しさ。
それを自然と受けとめる16歳の娘。
王や女王に庇護されるお姫さまじゃない。
一族の長である姫。
私の中で、ナウシカにはその“姫”のイメージが鮮烈にある。
ナウシカの世界を現代になぞらえてみると?
「映画は見たけど漫画版を読んだことがない」という方のために、ちょっと解説すると、世界情勢における風の谷の立場というのが、とてもとても厳しいのだ。
ナウシカさん(16)の立場をもっと実感いただきたいので、無理やり現代情勢にあてはめて考えてみよう。
アメリカをトルメキア帝国(クシャナ殿下の国)、中国を土鬼連合帝国(映画では出てこないけどね……)、日本をバラバラにして辺境の都市国家群(風の谷、ペジテ等)だとする。
お、意外と似合うかも?
物凄く栄えてた都市は滅んだらしいから、東京は腐海に沈んだことにして、仮に、海から近くて古い歴史の伝承者がいる風の谷を金沢、古くからの工房都市ペジテを北九州くらいにしておく。
(世界観を忠実に表わすなら、政令市レベルを壊滅させもっと小さな町にした方がいいのかも……適宜、お好きな都市に読み替えてお楽しみください)
若き市長ナウシカさん(16)の悩み
父であるジルが死んだ後、ナウシカは金沢市長となる。ただし日本の首相も県知事も各省庁とかも、全部無い。(ちなみに市長は世襲)
石川県エリアで人が住んでいるのは金沢だけ、工場や畑は全部市営。
きっと、富山とか新潟とか、近隣の都市国家とは時折交流があったりする。
世界情勢の中では中心的な役割ではない、これらの都市国家は辺境の国々と呼ばれる。(日本の都市とか東南アジアの都市とかが辺境諸国のイメージ)
辺境の都市国家は、アメリカと同盟を結んでいる。
時々「戦争するから戦闘機と兵を出して」と言われ、力関係からして絶対断れない。
ただし、この同盟の約束を守る代わりに、自治、つまり自分たちの王さま、姫さまの元で、都市の運営ができるという仕組みになっている。
先ほど挙げた、ジルがナウシカを叱るシーンを読み替えてみる。
「父上!!大変なの、北九州市が……」
「まて!!そのざまはなんだ、ナウシカ」
(略)
「隣国の北九州市が滅びたと……!?」
「避難民を載せた、ただ1隻の船も炎上したわ。おそろしい光景だった……」
(北九州市は平和な工房都市、しかも味方だ、なぜアメリカは……)
「アメリカの戦闘機だわ!北九州の難民船を探しているのかもしれません。私、いきます」
「ウム……いずれにしても、今回のことはやがて市長となるお前の最初の試練となろう。事の真実が明らかになるまで、慎重に行動しなさい」
「ハイ!」
(略)
「われらは偉大なるアメリカ大統領の命により、北九州のテロリストを追ってきた。この町の探索をみとめよ!!」
「ことわる!!この町にテロリストなどおらぬ。金沢はアメリカとの同盟をたがえたことのない辺境自治都市だ!!」
こんな感じだろうか……すごいね、16歳。
さらに、映画には出てこない土鬼連合帝国、これを中国になぞらえてみる。
皇弟ミラルパは自分の開発した新興宗教を帝国中に徹底して布教している。
宗教を共産主義に読み替えて、ミラルパは国家主席あたりにしようか。
トルメキア同様、一応こちらも連合帝国で都市ごとに政府はあるみたいだけれど、国家宗教の僧侶が支配者階級になってて、中央政府からの統制が効く仕組み。
お、中国共産党とちょっと似てるかも。
土鬼では、731部隊も真っ青なマッドサイエンティストたちが倫理観ゼロの研究開発や生物実験をさかんに行なっていて、その成果が党上層部の延命や戦争に使われている。
王蟲に敵を攻撃させる戦闘方法は、この土鬼のバイオ技術の応用だった。
(たしか、ここは漫画版と映画で違う設定。映画ではペジテが王蟲を戦闘に使ってたかな)
年若い金沢市長ナウシカさんに降りかかった難題。
それは、世界支配を目指す超大国が秘密裡に開発した兵器生物でオセアニアの都市国家(もち、金沢も)を丸のみにする計画を阻止することだった。
って、ホント重い……
ちなみに、ミラルパ主席は、布教による人民統制と世界支配をライフミッションみたいに思っている感じの人。
この新開発の国家宗教、人民レベルではいろいろ混ざってしまい、「世界はもうすぐ終わる」「悔い改めれば、救世主が天国へ連れて行ってくれる」的な感じで、末法思想チックな救世主信仰に変化してしまう。
どんな思想も、伝わるうちに好き勝手に改変されてしまうのかもしれない。
「姫性」―国を背負い、愛される力で統率する女性性リーダー
この、土鬼(→中国)とトルメキア(→アメリカ)の二大列強と、風の谷(→金沢)の喩えで、「風の谷のナウシカ」の状況をまとめてみると。
・金沢のような都市は、何事もなければ、交易無しでも自給自足可能っぽいが、腐海の毒のため、子どもの死亡率が高く、高齢者も病で身体が不自由になる
・文明が後退しているため、エンジン等を新しく製造することはできず、代々伝わるものを大事に使うしかない(壊れたら終わり)
・米中の二大列強の戦争が激化する時は、金沢市長として、アメリカとの同盟の盟約(戦闘機での出征)を果たさなくてはならない
・アメリカも中国も、残り少ない汚染されていない土地を少しでも多く自分のコントロール下に置きたいと思っているため、常時、小競り合いの戦争状態は続いている。
・金沢市長であるナウシカは、自治国家としての体面を保ちつつ、滅ぼされ接収されてしまった北九州の二の舞にならないよう、アメリカと交渉しなければならない
・世界全体では、腐海エリアが広がっており、人類文明は着々と滅びへ向かっている
まぁそんなわけで、ナウシカという女の子は、現代日本であれば大の大人が大勢集まって取り組んでいるような問題を、一身に背負っている。
ナウシカにもいろんな側面がある。
科学者だったり、凄腕の剣士だったり、思いやり深いお姉さんだったり。
「私、なぜ族長の家なんかに生まれたんだろう……」
そう言って人知れず悩むシーンもあった。
それでも、重すぎる責任を自然と纏ってしまう「姫性」がナウシカにはある。
多くの人に慕われ、慕われることで統率力を発揮するが、その「姫性」のために大きな試練に巻き込まれて行く。
そんな訳で、「清姫はナウシカなのだ」
ふー、結論にたどり着くまで長かった!
そう、この「姫性」こそが、清姫伝説の中では語られてこなかった、もうひとつの「清姫」だと私は思っている。
一般によく知られている清姫像は、やはり、ストーカー蛇女だろうか、一方的に惚れた男を祟り殺す、女の情念の凄まじさといったイメージ。
しかし、諸説ある伝承の中で、清姫の生まれ故郷に伝わっているのは、地元の有力者の娘が失恋のせいで川に身を投げた話だという。
そこには、炎の蛇も鐘に祟る怨霊も出てこない。
私には、その脚色は、清姫本人以外のところから出てきたように見える。
しかも、炎の蛇とか、焼き殺すとか、何百年後も祟るとか、そんな大それた演出は、一人の女の子の失恋の範疇を越えている。
そのエネルギーはむしろ、清姫側のものではなく、姫を慕う大勢の人たちのものだったんじゃないだろうか?
漫画版の風の谷のナウシカでは、ミト爺がこんなことを言う。
「ワシらはみんな、姫さまを恋しておるのです」
ひょっとしたら清姫も、ナウシカと同じだったのかもしれない。
もし、平安時代中期、紀伊山地の山奥で、ナウシカのような女首長が居て、村々の人たちから慕われていたとしたら。
彼女は、じわじわと支配力を増す都の政権に村人が搾取されないよう苦心していて、旅の修験者のもたらす情報を元に、村が生き残る方策を二人でよく話し合っていたのだとしたら。
彼女が身を投げた原因が、失恋だけでなく、村人たちが生計を立てるための機密が恋人に盗まれてしまったからだとしたら。
それなら、姫を恋い慕う村人たちの怒りが炎の蛇となっても無理はないんじゃないだろうか。
(この辺を詳しく探求してみたい方は、津名道代さんの「清姫は語る」をぜひどうぞ!)
清姫がナウシカになる日
今年の12月には、ナウシカが歌舞伎化される。
はじめは「ええっ!?」と思ったけれど、道成寺物を何度もやってきた尾上菊之助がナウシカを歌舞伎にする奇縁を思うと、ワクワクする。(七之助のクシャナ殿下も美しいだろうなぁ)
あの長い話をどうやって舞台に収めるのか、不思議だけれど、一昨年のマハーバーラタも趣向やセリフ、キャラの立て方、諸々が本当に楽しかったから、きっと尾上菊之助のチームなら何かやってくれるだろう。
私の愛する日本文化が多重にクロスオーバーする舞台。
今から首を長ーくしてお待ちしている。
2019.08.11