見出し画像

審判のときは誰にもわからない

ふと思う。
今この次の瞬間、何が起こるのかなんて誰にもわからない。
時折、虫の知らせで胸騒ぎがして、この先に起こることの難を逃れる人がいるけれど、多くの人は何も感じず「そのとき」を迎えるんだと思う。
 
祖父が「これが最後になるかもしれない」と、お盆を迎え、実母の仏前に手を合わせるために休んだその日、大阪は最後の大空襲を受け、兵器工廠があった大阪ビジネスパーク一帯が焼け野原になった。
この日の空襲で400人を越える人が、翌日の終戦を知らず亡くなった。
あの日、祖父が虫の知らせで休まなかったら、今の私はここにいない。
一方で祖父から命をもらった母は、無警戒な行動で命を落とすことになり、残された私は今、ここでこんなことを考えている。
 
来年以降、日本は災害が頻発し、混乱していくと言われている。
いつ、自分が「そのとき」に遭遇して命を落とすか。それは誰にもわからない。
南海トラフ地震でそのときを迎えるのか、それとも不慮の事故でそのときを迎えるのか、突然の体調不良でそのときを迎えるのか。
人は死と向き合ってはじめて、自分の命と向き合う。
自分の人生と向き合う。
昔はもっとそばに転がっていた死というものが、科学の発展とともに病院という空間に押し込まれるようになり、身近なものでなくなっていった。
私たちは発展という言葉の裏で、見たくないものを見ず、向き合うことを避けるようになっていったのかもしれない。
 
それが時代の周波数なのだということをグローバルサイクルを理解した今なら解るが、そうやってヒト本来が備え持っていた感覚を古いものとして退化させていくプログラムが働いているのは皮肉だな、と思う。
今より死が身近にあったとき、私たちは「そのとき」に対してもっと敏感だったのだと思う。
生きるか死ぬかの瞬間を鋭敏にキャッチできなければ生き残れない。
そうやってセンサーを磨いて生きてきた時代を忘れた今の私たち。
 
これから来る新しい時代の前の、混沌とした世界に巻き込まれる中で、私たちは今まで蔑ろにしていたモノと再び向き合わされるのだろうな、と思う。
そこから精神的な目覚めが生まれ、今この瞬間を自分はどう生きるのかという普遍的なテーマに、みんながいきあたっていくことになるのだろう。
 
その目覚めがあった人から変革して、今の時代の周波数から一抜けしていくのだと思う。
最後まで古い時代の頚木に縛られる者もいれば、軽やかにそこから抜け出し、新しい時代の周波数に駆け出す者もでる。
そんな時代がもう始まっている。
誰も気付かないうちに。
そしてある日突然、そのときは私たちを篩にかけるため、審判を突きつけてくる。

その瞬間、後悔しない選択をできるかどうか、その方法も既に用意されている。
私はそのための鍵を自分の人生のフラクタルの中で手に入れられたのだと思う。
これをそのときに役立てられるかどうかは、自分次第。でも、知っているのと知らないのとでは全く違う。そう言う点では、アドバンテージだと思う。
 
今もこうして漫然と1日の始まりを迎えているけれど、
そのときは今これを書いている次の瞬間かもしれない。
乗り合わせた通勤電車の中の、見知らぬ多くの人とともに、そのときに突入するかもしれない。
日の光の見えない地下街を歩いているときに、そのときはくるかもしれない。
大切な人を行ってらっしゃい、と見送ったのに、その背中をもう一度見ることができないかもしれない。

そんなことを考えると、今このときという瞬間が愛おしい。
心残りなく全ての人に自分は接することなんてできていない。
自分がすべてのことを心残りなくやり遂げて、今ここにいるなんて、思えない。
そのときがきた瞬間、これじゃ後悔しかないだろうなあと思う。

そうあらためて感じたなら、今日から少しずつでも全力で今を完結できるようにしよう。
それが自分にとって難しいことだと分かっていても。
分かっていてやらないのは、人生の中で一番もったいなくて、多分、一番後悔する。
太く短く生きたいとは思わないけれど(←私は百まで生きて仙人になりたい人)、やり残した後悔はないようにしていきたいなあと思う。

そんなことを深く考えた、12月3日、朝のこと。
 
今日も誰もが笑顔で、一日を終えることができますように。
今この瞬間、ここに在ることに、感謝。

それでは今日はこのへんで。
ごきげんよう。
 




いいなと思ったら応援しよう!

Initiator's cafe
よろしければマイサポート、お願いいたします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます! BG5だけでなく、やりたいことをどんどん発信していきたいと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。(._.)